ポエトリーカフェ参加の記 “春の特別篇:パンの曾”

 プレアデス星団、日本名でスバル。若く青白い色をした星の集まり。明治末期、そのスバルという名を関した文芸誌に集った人々の活動拠点となった運動があった。主なメンバーは、北原白秋・木下杢太郎・吉井勇と、画家の石井柏亭・山本鼎・森田恒友たち。パリのカフェでの芸術家の交流に憧れ、セーヌのほとりの代りに隅田川の近くに場所を求めた。それが今回のポエカフェ特別編で取り上げられた『パンの會』だ。

 4月29日、場所は明治22年築の煉瓦館。明治末期の運動を語るのに、これも相応しい場所だ。煉瓦館(蔵)の2階に集ったのは14名の参加者。ゲストには北方人さんを迎えることが出来た。当日の様子や、参加された方の声はすでにPippoさんのブログに掲載されているが、未だに余韻が冷めないすばらしい特別編だった。

 邪宗門(白秋)風、エキゾチシズム・マドモアゼル姿で出迎えるPippoさん。パンの角を髪飾り風につけていらっしゃる方や自作のパンフルートをさげておられる方。Pippoさんが、『パンの會』に集った詩人や、歴史的な流れについて話す中、北方人さんが絶妙のタイミングで補足なさってくださる。呼吸がぴったり、しかも、熱い名コンビのリードで会が盛り上がって行った。

 伊上凡骨、フリッツ・ルンプに関する北方人さんの研究にも驚かされる。二人とも、一般にはまったく知られていないであろう人物。彼らへの北方人さんの思いと研究成果の一端を見せていただけたことも、今回のポエカフェでの大収穫だった。北方人さんの著書『木版彫刻師 伊上凡骨』を購入できたことも嬉しい。フリッツ・ルンプに関して、母国ドイツでの業績が日本にきちんと伝えられていないルンプ。彼のことをドイツで発行されたルンプの資料を見せながら、熱く語る北方人さんの姿も、とても印象的だった。

 それにしても『パンの會』の存在の大きさに驚かされた。ポエカフェでも時々名前が挙げられてはいたが、個人的には何も知らないに等しかった『パンの會』。今回、あらためて、その存在の大きさを思わされた。詩人個人を取り上げる時と違い、誰か一人に収斂していくのではなく、何人もの詩人、『パンの會』という渦の中にあった人々が、今もわたしのまわりを巡っているようだ。(取り上げられた詩人はPippoさんのブログをご覧ください)

 ただ、その中でも「木下杢太郎」が気にかかる。會の中心人物と言える木下杢太郎。実は、今回のポエカフェに参加するにあたって、野田宇太郎の『パンの会』を読んだ。そこで取り上げられている木下杢太郎がとても気になっていた。実は、10年以上前に伊東の木下杢太郎記念館に行ったことがある。その時は彼の絵に興味をもったのだが、今回のポエカフェで、あらためて詩人としての彼に惹き付けられた。今、全集を借りてきて読んでいる。

 いくつものきらめきはじめた星が、若い灯をともしていた會。ひときわ輝く北原白秋。しっかりと消えぬ灯をともし続ける木下杢太郎。酒のイメージのあまりにも強い吉井勇。彗星のようなフリッツ・ルンプ。木版彫刻師として大きな仕事を残した伊上凡骨。

 若き星雲の中で光る星たち。やがて、それぞれの道を定めて散って行く星たちが、星間物質に半ばかくれながら、光っているのを思わせる。星座も長い年月のうちに、その形を変えて行くように、パンの會の星たちも、やがてそれぞれの場を見つけて行く。実際の星に比べ、その動きはあまりにも速く、時間はあっという間に過ぎ去る。

 後に酒の力が大きくなっていった會は、やがて消えて行った。しかし會は消えても、そこから力を得た人々の軌跡は今につながっている。それに触れるとき、触れた者に、その熱が伝わる。今回のポエカフェ二次会の様子は、まさにそれを示していたようだ。食事をしながら、あちこちで話はつきない。Pippoさん、北方人さんの資料などを間に、みなが魅了されていた。かつての野田宇太郎、今回のPippoさん、北方人さんのような方々を通して、伝えられる『パンの會』。その熱さを垣間みた時だった。

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ポエトリーカフェ参加の記 リターンズ2 (室生犀星)

 詩姫Pippoさん主催のポエトリーカフェも、3月をもって第2期を終了した。第3期は5月からとのことだが、その前に4月には2回の特別編が組まれた。その一つが14日に行なわれた、ポエカフェリターンズ2・室生犀星の会だ。第2期の最終回に取り上げられた室生犀星。ゲストにいがらしみきおさんを迎えて、30名の参加で行なわれ大盛況だったが、室生犀星はそれだけで終了することを許してくれなかった。

 定員13名が一杯になり、そのうち7名が犀星2回目。前回のポエカフェでさらに犀星を知りたくなった人が確実にこれだけはいるということだ。さらにはポエカフェ初参加の方が3名!参加するたびに、ポエカフェの広がりを実感する。5名から始まったポエカフェ、まもなく3期目に入るのだが、Pippoさん、カヒロさんの地道な努力の結果にあらためて頭が下がる。(Pippoさんのブログはこちら

 受付開始時刻少し前に到着したが、まもなく参加者の方が次々とこられる。早めの受付開始となる。KAKKAcafeさんでのポエカフェ名物となった、特製のポエカフェメニューも用意されている。今回は2種(写真はこちら)、どちらもとても美味しい。このメニューもポエカフェの楽しみの一つになっている。

 さて、今回のリターンズだが、ゲストに犀星愛の爆発している大学生「いらひ」さんをお迎えした。この春で大学4年とのことだが、犀星愛のすごさ、ただものではない。すでにPippoさんもご自身のブログで書かれているが、いつもの感じで解説するPippoさんに絶妙のタイミングで入ってくるいらひさん。そのコンビネーションはまさに長年のコンビをくんでいるかのよう。これが打ち合わせなしというのだからすごい。しかも、いらひさんが補足して行く内容が、また充実している。その見事な掛け合いの中で、犀星が動き始めて行くように思える。前回と、解説内容は重複もあるのだが、いささかも気にならないのも、この掛け合いの絶妙さによるところ大と思う。

 参加された方々からも、それにつられてか、さまざまな意見・感想が出てくる。発言される方の視点の違いが興味深い。自分以外の様々な視点からの意見を聞くことが出来るのも、ポエカフェの魅力だ。恒例の朗読くじによる、皆さんの朗読と相まって、前回とはまた違った楽しさがあふれていた。どちらが良いというのではなく、ゲストと取り上げられる詩人との関係の違いや、参加人数の違いによって、異なった楽しみ方が出来るということだろう。両方ともに参加できて本当に良かった。

 ところで、まだまだ十分に読んでいるとは決して言えない者の感想だが、例によって少しだけ記しておく。犀星の作品についてあらためて感じたのは、詩について言えば、やはり初期の作品と晩年のものが、心に入ってくる。しかも初期のうちでも、第1詩集である『詩の詩集』よりも、それ以前の作品に心惹かれる感じがする。『愛の詩集』の世界、どこか肩に力が入っているように感じるのだ。当時犀星が読んでいたものによる影響があるためであろうか。若さゆえの意気込みであろうか。『抒情小曲集』にある柔らかさが私には好もしい。

 それとの関連もあるのだが、犀星は「強くありたい」という願望を持ちつづけていたのではないかという気がしている。果たして生涯を通じてかは、もちろん私などには分からないが、そんな印象を受けている。生きていくことに強くありたいという願いを持ちつづけた犀星。そのエネルギーの強さを、彼の生涯を見ていく時にとても感じる。Pippoさんも犀星のエネルギーの強さを指摘しておられたと思うが、それが犀星の魅力の一つとなのだろう。晩年の、愛人の存在も含め、艶やかな作品群を生み出すエネルギーといい、読む者はいつの間にか、そのエネルギーのなかにひきこまれていくのかもしれない。

 前回の参加記で、「もがく」ということばが犀星について思い浮かぶと書いた。もちろん一つの言葉で犀星をくくることなど到底出来ないのだが、エネルギーの強さとあわせて、今も頭に残っている。生きることにもがき、書くことに生きるためのエネルギーを注ぎつづけた犀星。愛人の尊者を隠し続けられたのも、その中でのことという気がする。

 もう一つ、どうしても心にかかることがある。それは養母の赤井ハツとの関係だ。自伝的作品に表されたハツと、実際のハツ。そこにはギャップがあったことは、いらひさんからも指摘されていた。そこに実母のことが重なってくる。何度も自伝的作品を書いていることとあわせて、自分の生い立ちに対し、犀星がどう向き合っていたのかが、気になって仕方がない。犀星の作品を読む時、どうしても彼の人生が気になってしまう。最期に書いた詩「老いたるえびのうた」の最後に「生きてたたみをはうているえせえび一疋/からだじゅうが悲しいのだ。」とある。犀星のエネルギーと同時に、この「悲しみ」を思う。それは不可分のものなのだろう。

 最速のリターンズとなった、犀星ポエカフェ。これで終わりとなるとは思えない何かが残ってるようだ。参加した皆さんが、犀星のエネルギーにつかまって、一人ポエカフェを続けているかもしれないなどと、思うような会だった。

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ポエトリーカフェ参加の記 第2期の11 (室生犀星)

 詩姫Pippoさん主催のポエトリーカフェも、ついに第2期のファイナルとなった。ゲストに漫画家のいがらしみきおさんをお迎えして3/24に開催された。30名といういつもより多い定員のため会場はKAKKAcafeさんの入っているビルの地下にあるカルチャー教室でも使えそうな場所。(地下まで美味しいものを運んで用意してくださったKAKKAさんに感謝。しかも今回も特別メニューあり!)

 机もだされ、いつもとは違う雰囲気で始まったポエカフェ。しかし、Pippoさんが話しだすと同時に不思議といつものポエカフェ空間へと変わって行く。ただ今回は人数が多いので、参加者の自己紹介は初めての方以外は、Pippoさんによる一言紹介。新しい方は10名。第1期第1回は5名。2年半弱でここまで浸透したポエカフェの広がりはすごいと思う。今回、第1回に参加された方も1名おられた。

 取り上げられる詩人は、参加者の間で残った大物という事で話題になった事もある室生犀星。いつもと同じスタイルで犀星の人生といっしょに詩が紹介されて行く。朗読くじも健在。ただ、人数が多いので、その中で当たりの人だけが朗読というスタイル。Piipoさんが犀星の生涯を紹介して行く中で、いがらしみきおさんが、思った事を語っていかれる。いがらしさんの視点が面白い。朴訥のようで熱いいがらしさんの語り口も人を惹き付けるものがあるように感じる。詳細はPippoさんがブログで書かれる事と思うので省略。なお、当日の写真はこちらにUPされている。参加者が発言する機会は人数の多さとゲストを迎えてということもあって、いつもより少ないが、それを補ってあまりある豊かな時間が流れて行く。時間はあっという間に過ぎて行き、後半は少し駆け足となった。

 そして第2部へ突入。いがらしさんが自作の詩をまど・みちおさんのまねで朗読される。これがまた良い味。でも最後の方はいがらしさんに戻っていたと思うのだが、それも気がつけばの事。すっかり、いがらしさんの詩の世界に包みこまれていた。Pippoさんも、いがらしさんの詩を朗読。これもまた良い。詩の本質についての議論へも話が向いて行く中で、あっという間に時間がなくなる。もっとこの時間が続けばと思うところでファイナル終了。第3期は、5月からとのことだが、まだまだ埋もれている詩人や取り上げられていない大物もいるので、期待は膨らむ。

 さて、犀星についてだが、少しだけ感じた事を記しておこう。もちろん浅学な者の感想という事でお読みいただきた。

 犀星に関しては、第1詩集である『愛の詩集』はじめ少しだけ読んでいた。印象に残っていたのは伊藤信吉編の『利根の砂山 上州詩集』だった。犀星が萩原朔太郎を前橋に尋ねた時期の作品を集めたものだ。なぜかは分からないが、初期の作品の方が好もしく思われた。その程度の感想で今回のポエカフェにのぞんだ。

 今回、あらためて犀星の一生を通しての活動を知ったのだが、その多作な事に驚かされた。のみならず、晩年にいたるまでの小説の多作さもにも驚かされる。ポエカフェ直前に『密のあわれ』を読んだが、これが晩年の作かと思われるような艶やかな作品だった。詩も今回紹介された『昨日いらつしつてください』におさめられた作品が心に残っている。私にとっては初期と晩年の作が心にかかることとなった。

 自叙伝として読める作品を繰り返し書いていたことにも驚かされる。老いても枯れない創作意欲と艶やかな作品。そんな一生を過ごした犀星の最後の『老いたるえびのうた』が心にあらためて刺さってくる。最後まで枯れなかった犀星が記した「悲しさ」は、あまりにも重い。

 まだまだ、犀星のほんの一部に触れたに過ぎない。打ち上げでの犀星に愛人がいた。それも家族には全く気づかれずにという驚きの発言もあったことだし、Pippoさん、もう1回犀星でポエカフェお願いします!(と書いたところで、4月14日にポエカフェリターンズとして犀星を取り上げるとの嬉しい知らせが!)

 それでも、ポエカフェ前から犀星の作品を読んでいく中で、いくつかの言葉が頭に浮かんできた。その一つが「もがく」という言葉。犀星は生きる事に一生かけて、もがくとでも言い得るような、精一杯の力を注いでいたのではと感じていた。今でも、そのような感じは残っている。しかし、そんな一言でくくれないものを今回のポエカフェに参加したことで、あらためて感じている。

 一人の人間の生き様を示すものとしての作品を多く生み出した室生犀星という人物に、さらに近づきたいという思いが深まっている。ファイナルの日からすでに1週間がたったが、少しずつ犀星の作品と犀星に関する本を読みつづけている。
 

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ポエトリーカフェ参加の記 第2期の10 (石川啄木)

 めずらしく日曜日開催となった2/26のポエカフェ。少し時間があったので往来座によった後、妻のアンジーといっしょに会場のKAKKAcafeさんに到着。少し早めに会場に着くと、KAKKAさんが椅子と机の大移動中。参加する皆さんがPippoさんの方を向けるようにとのこと。お店のレイアウトをかえてまでの配慮がとても嬉しい。もちろん、Pippoさんとカヒロさんも準備中。

 そうこうしている内に、参加される方々が入ってこられる。今回のポエカフェで取り上げるのは石川啄木にちなんで用意してくださった啄木サンドが、あっという間に売り切れる。(啄木サンドの写真はこちら)今回の参加者は20名。新しい方も2名おられる。いつも思う事だが、毎回、初めての方がおられるだけでなく、その方々がリピーターとなっていく。Pippoさんの努力が着実に根付いていっているのが分かる。

 今回は石川啄木の回。詩人というより、歌人としての方が有名かもしれない。Pippoさんの用意してくださった資料にも、『一握の砂』を中心に、短歌が多く掲載されている。

 当日の様子はすでにPippoさんのブログ「古書ますく堂」さんのブログに詳しいが、啄木の生涯が紹介されるにつれて、そのあまりのことに、女性陣を中心にツッコミがとどまるところをしらない状態になる。ある程度はと思っていたPippoさんの予想を越える事態に。きわめつけは「クソッタレですね!」と切り捨てたUさんか。確かに、『一握の砂』におさめられた短歌群からのイメージとはあまりにもかけ離れた生き方と言える。(このあたりのこと、「古書ますく堂」さんがうまくまとめてくださっている)

 それでも『一握の砂』をはじめとして、今なお啄木の作品は生き続けている。啄木の実人生とは別に、作品が受け取られて行く。その作品が読む者の心にとどく何かをもっているからこそ、実人生から得られるイメージとのギャップは大きい。それゆえのツッコミの連発、炸裂となるのだろう。

 そのギャップ(真にギャップかは私にはまだ不明だが)を越えて残っている作品を読んでいくとき、一つの疑問がわき起こってくる。それは、啄木にとって、作品を生み出すとはどういうことだったのだろうかということだ。浅学な私ごときが何かかけることではもちろんない。ギャップを感じさせるまでにして、造り上げていった作品世界に、啄木は何を託したのだろう。そんなことを考えつつ、ポエカフェの時間は楽しく過ぎて行った。

 第2期ポエカフェの楽しみの一つに朗読くじがある、参加者全員がくじをひき、作品を朗読するのだ。今回私が読んだのは『あこがれ』から、「啄木鳥」。後の短歌とはまったくことなる、華麗な言葉使いにあふれる1篇だ。若き啄木が、それまでに吸収したすべてを、自身の内に持てる力の限り紡ぎだしたかのような力を感じた。そのせいでか、啄木の力に引き出されるように声を張っての朗読となった。現在における「あこがれ」の評価は別として、若くして、ここまでの力をもっていた啄木の才能を思わざるを得なかった。

ところで、今回のポエカフェに際し、啄木の作品を読んでいく中で、どうしても気になっている事がある。それは短歌の3行書きだ。以下は、浅学な者の感想として記しておく。

 上の句・下の句の区切りを敢えて無視したかのような行分けが随所に見られる。その3行書きの作品を前にして、どういうリズムで朗読する事を啄木は望んでいたのかと、疑問が湧き出てきた。有名な「たはむれに母を背負いて/そのあまり軽きに泣きて/三歩歩まず」にしても「5・7/5・7/7」となっている。短歌でありながら、自然な短歌の区切りで読まそうとしない改行。

 真ん中の「5」だけを2行目にした作品もあるかと思えば、2行目が「7・5・7」の作品もある。少なくとも、そのように改行する事で、視覚的な効果があることだけは確かだろう。『悲しき玩具』では、句読点などの記号や一字下げ等が用いられる。これも、短歌の中に別のリズムを視覚的に持ち込んでいるように思える。短歌であって、短歌を越えようとしたのだろうか。私には3行詩に見えて仕方がない。そんなことを考えていたら、NHKのEテレで取り上げられた啄木の歌を見た息子が「これは詩だね」と一言つぶやいた。
 
 こんなことも考えさせる啄木の作品だが、晩年(といっても若いが)の活動。借金の天才だった啄木、彼を守りつづけた金田一京助をはじめとする友人たちとの関係。いろいろな面に興味は広がりつづける。それも、彼の作品が心に残すものがあればこそ。この「参加の記」を書きつつ、あらためてそれを確認している。

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ポエトリーカフェ参加の記 第2期の9 (村上昭夫)

 久しぶりのポエカフェ参加の記です。すでに主催のPippoさんはじめ、参加された方のブログもあるが、遅ればせながら1月26日に開催された村上昭夫の回の参加記を記しておく。(12月に行われた「伊藤整」の回に参加できなかったのがかえすがえすも残念。)1回抜けただけで、とても久しぶりの感じがしている。そしてポエカフェの時間は楽しく、あっという間に過ぎ去った。(ポエカフェ主催のPippoさんのブログはこちら。)
 会場はKAKKAcafeさん。時間にやや遅れ気味で到着。すでに大半の方が席についておられる。資料もすでに配られている。常連の方々のお顔がなつかしい。その中に初めての方のお顔も見られる。新しい方が4人参加されていた。リピーター率が非常に高いポエカフェだが、着実に新しい方が増えている。ポエカフェを通しての人と人とのつながりが、確実に広がっていることをうかがわせる。
会場の様子が、カヒロさんによってアップされている。テーブル席はいっぱい。カウンターを背にしても何人かが座る。私もカウンターを背にしたが、この席、けっこう良い。全体が見渡せるうえに、Pippoさんの声も皆さんの朗読の様子もよく分かる。
 KAKKAさんの用意してくださる軽食(わたしはサンドイッチ)とドリンクをいただきながらというのもよい。今回は手作りのジンジャーエール。とてもおいしかったです。
 今回取り上げられた詩人は、村上昭夫。刊行された詩集は『動物哀歌』ただ1冊。現代詩文庫に1999年に収録され、その翌年には現代詩手帖でも特集がくまれたが、知られない詩人のいとりに入るのではなかろうか。参加された方々も、始めて読んだという人が多かったようだ。わたしも、かつてPippoさんのサイト、P-Waveで取り上げられて、それ以来気になっていた詩人だが、今回、はじめてまとめて読んだ。
 ポエカフェ第2期になって始められた「朗読くじ」。参加者全員がくじに書かれた詩を朗読するのだが、くじをひく時にはけっこうどきどきする。それが楽しみでもある。朗読するという行為を通して、あらためて気づかされることもけっこうあります。どう読むか短時間のうちにいろいろ考える。自分の朗読したしについての感想もそれぞれが話すが、それを聞くことも刺激になる。さらにそれをきっかけの意見の交換も、さらに面白い。一人で読んでいるだけでは開けない世界が広がってくる。今回、わたしは『一番星』を朗読したが、自分の感想に対するPippoさんの解説とともに、S田さんの感想もとても刺激になりました。S田さんが自分で読まれた詩への感想も、とても興味深いものでした。
 参加された方々の感想の中で、村上昭夫の詩全般についてだったと思うが、「余裕がない」という感想をもたれた方がおられた。印象に残ることばだった。たしかに、村上昭夫の詩にはそう言わせるものがあるのかもしれない。
 シベリア抑留という体験。その頃のことをまったく語らない村上昭夫。復員後、職場では元気に活動していたというが、病におかされ、死を考えざるをえない状況に追い込まれて行く村上昭夫。復員する前のおとについて、村上昭夫は何も語っていないと言われる。その沈黙が重い。
 そんな状況の中で紡がれて行った詩のことば。人間の存在と、あまりにも厳しい状況でで向き合わねばならなかった、ひとりの人間がしぼりだしたことばのように、私には迫ってきた。それは、読むものに「余裕がない」と思わせる厳しさを湛えているのかもしれない。
今回のポエカフェで配布された資料に、村野四郎の『亡羊記』の後書の一部があった。そこには「もしも実在というものが、誰の感性や意識とも直接にふれることができるものなら、詩というものはいらないだろう。いやそのとき、ぼくらはすべて詩人になるはずである。/しかし実際には、ぼくらはどんな実在をも見てはいないのだ。」とあった。村上昭夫が傾倒した詩人村野四郎のこのことばが、村上昭夫を理解するうえでの助けになるのではないかと思っている。村上昭夫にとって、人間存在の深みに向き合うことが、「実在」にふれることだったのではと思う。
 今回は取り上げられなかったが、『人』という詩の冒頭には「人のことをいうのは恐ろしい/それは世界のかなしみのなかで/一番かなしいことだ」とある。ひらがなで書かれた「かなしみ」それは人間の存在の奥底を見つめようとする者に見えてくる「かなしみ」なのだろうかと思う。その「かなしみ」を抱えつつ、向き合いつづけた村上昭夫。そこに「強さ」を見ることができるようにも思う。

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