「座敷牢の中から」 ポエトリーカフェ参加の記 第8期の5(高橋新吉篇)

 4月29日に開催されたポエカフェの課題詩人は2012年6月24日以来の高橋新吉でした。6年振りの登場となります。ダダイズム詩人として出発し、禅の詩人へと変化していった高橋新吉です。17名の参加でしたが、Pippoさんによれば定員に達するのが早かったとのことです。高橋新吉に興味を持たれる方が多いのでしょうか。

 新吉にちなんだお菓子は新吉の故郷、愛媛県八幡浜市の「唐饅」です。入手困難になっているものを伯剌西爾のご主人が取り寄せてくださっていました。もちろん、コーヒーとともに美味しくいただきました。毎回ご尽力くださるご主人に頭が下がります。

 さて、会はいつも通り自己紹介から始まるのですが、一つは「高橋新吉と私」。これはいつも通りと言えるお題ですが、もう一つにはびっくりさせられます。そのお題は「死について」というもの。かなり重いお題です。ところが自己紹介が始まれば、皆さん、結構このお題で発言されて行くのです。お一人は、なかなかこのような事について周囲の人と話す機会が無いと仰ていましたが、なんと、「話しましょう」と受け止める方が複数おられました。ポエカフェに集まる方々の思いがチラッと見えたような気がします。いきなりの重いお題にも関わらず、自己紹介はゆったりしたいつもの雰囲気で進んでいきます。重いものを軽くするのでもなく、避けるのでもなく受け止めていこうとする雰囲気が回を重ねる中でポエカフェに積み上げられてきたのでしょう。

 ダダと禅の詩人なので、どんな感想が出てくるかワクワクしつつ皆さんの朗読と感想を聞いていきました。Pippoさんの用意された資料もヴァージョンアップです。『ダダイスト新吉の詩』に寄せられた佐藤春夫の「高橋新吉のこと」も引用量が増えています。前回はなかった辻潤の「跋」も入っています。ダダイスト新吉の姿が浮かび上がってきます。詩作品の朗読は「DADAは一切を断言し否定する」で始まる有名な『断言はダダイスト』抄から始まって行きます。朗読とともに、感想、意見、質問が次々に出てきます。参加されたDさんが後でツイートされたように、とても豊かな時間になりました。ダダイズムに関してはポエカフェ初期から参加しておられるTさんの説明が助けになりました。会が終わってからも、ダダイズムに関して質問させてもらいましたが、新吉を考える上でのヒントをいただきました。

 さて、Pippoさんが自己紹介のお題に選んだ「死」ですが、新吉の生涯と作品を考えるうえで、避けて通れないテーマでしょう。前回の参加記で「新吉はことばで『死』と戦いつづけたように思える。」と書きました。これでは、どうも不足だったなということを今は感じています。「死」と向き合いつつ、存在の本質を問い続けたのではないかというのが、今の感想です。それは『断言は一切である』という「断言はダダイスト」の1行にも見られるように思うのです。

精神を病み座敷牢に閉じ込められた新吉が、後にその期間のものとして出した『戯言集』があります。全集の第1巻に収められた奥様の喜久子さんの解題によれば、新吉はこの原稿をとても大切にしていたとのことです。その解題の中に、見過ごせない文章がありました。「父は息子を救うべく死んだ」というものです。すれ違い続けた新吉と父親。その父親に関する詩が『戯言集』に続いて出された『日食』に収録されている「父」であると思います。「父は私を愛の目でみた」で始まります。精神を病んだ新吉との闘いの中、新吉の父は首を鎰って自殺しています。

 新吉の詩の中では、とてもストレートな作品です。今回、私はこれを朗読しました。実は、前回もこの詩を朗読していたのです。会後のPippoさんのツイートに「求道者的精神の強さ」とありました。ダダから禅へと向かった新吉。その道を行くには強靭な精神力が必要なのではないでしょうか。禅の接心の期間に発病したと言われています。しかし、全てが分からない状況にはなかったように思うのです。それが『戯言集』であり、その状況を乗り越えるきっかけとなったのが父の自殺を受け止め、次へと進むための詩が「父」であったように思えるのです。

 だいぶ長くなってしまいました。いつも以上にまとまりがありません。そもそも新吉を言葉で語ろうとすることが間違いかもしれないのです。『ダガバジジンギヂ物語』を読みました。自伝的作品ですが、読み易い作品ではないでしょう。虚実ないまぜのところもあるように感じます。新吉を理解する助けにはなると思うのですが、それでも一筋縄ではいかないように感じています。

 もう一つ気になっていることがあります。それは奥様の喜久子さんのことです。会後、Pippoさんが紹介してくださった『高橋新吉 五億年の旅』(金田弘著)を読みました。そこには喜久子さんとの結婚に関する逸話が記載されています。新吉を考える上で、奥様の存在は欠かせないように思えてきています。

 高橋新吉にとって、詩とはなんだったのだろうという問いを抱えつつ、これからも彼の作品を読んで行くことになりそうです。

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「気になる詩人は…」 ポエトリーカフェ参加の記 第8期の4(春・夏篇)

 25日のポエカフェは、久しぶりの入門篇、テーマは「春・夏」でした。一人の詩人ではなく、テーマに沿って多くの詩人の詩を読むことができるのも、この入門篇の楽しみです。今回取り上げられたのは、39人!!資料も6ページに渡ります。年代も1854年生まれのランボーから現役の詩人までという幅広さです。このようなテーマ開催の時の準備での詩の選択の大変さを思います。

 自己紹介の後、恒例の朗読くじが回ってきます。「くじ」とはいっても最近は、「交換可」なので、引いた後の交換が行われます。どこまで「くじ」なのか、不思議な風景が現出します。今回は一人2篇と言うせいもあったのでしょうか、いつもより盛んです。斯く言う私も、交換に乗り出しました。それぞれ何を基準に選んでいるのかも気になります。

 さて、今回のようなテーマ篇の時の楽しの一つに、これまで知らなかった詩人に出会えることがあります。今回、まったく初めてだったのが、「宇留田敬一」と言う詩人です。『鎮魂歌』と言う詩が取り上げられていました。「おまえはいま静かにいこつてゐる‏/そんなに明るく すきとほつて‏/ぼくの胸より小さな箱に‏/白い布につつまれながら」と始まります。4連目の「遺品一つ帰らなかつたおまへのために‏/誰かがわたしてくれた‏/レイテの珊瑚礁の一片」が刺さってきます。これに続く最後の連は「一度だつてこれほどしつかりと抱いてやらなかつた‏/弟よ いま長い旅路の夢が一つになる‏/生と死が明るい空で重なりあひながら」と結びます。この方の詩を読みたくなりました。どのような詩人でしょうか。とても気になります。

 野長瀬正夫は、既に読んでいる詩人ですが、今回取り上げてもらって嬉しかった一人です。おそらく、今ではあまり知られてはいないのではないでしょうか。取り上げられたのは『夕空とお父さん』です。野長瀬さんは、児童文学の世界にも身を置いていた方です。これも、こどもの視点での作品です。戦後復興期に一生懸命に働いていたお父さんの姿が浮かびます。「お父さんは‏/じいっと空をながめている」が残ります。野長瀬さんは児童の視点からの詩の他にも多くの詩を書いておられます。かつてPippoさんがツイートで色々な詩人の作品を取り上げていた時に、この方を知りました。それがきっかけで、詩集をさがし、やっとのことで見つけ出したのが昭和40年発行という奥付のある、『日本叙情』がありまです。とても良い出会いでした。そんな事を思い出しながら、みなさんの感想を聞いていました。詩との出会いは、ちょっとしたことがきっかけになることがありますが、今回のようなテーマ篇も、そんな役に立つかもしれません。

 ところで、今回の朗読くじで読んだ詩なのですが、交換に乗り出した私の目の前にPippoさんから八木重吉が降ってきました。かつてPippoさんが提唱した近代詩復興委員会の八木重吉担当として、読まないわけにはいきません。しかし、重吉の短い詩は朗読するのに苦労するのです。ドキドキしながら「豚」を読みました。「この 豚だって‏/かわいいよ‏/こんな 春だもの‏/いいけしきをすって‏/むちゅうで あるいてきたんだもの」農村風景の中、歩いてくる豚を見つめる重吉の視線を想像します。近頃のペット用の豚ではありません。土の道を藁が付いているかもしれない姿で、鼻を鳴らしながら一直線に進んでいくのでしょう。そんな豚の姿に「いいけしきをすって‏」いると見る重吉の視線の背後にある思いを想像します。それにしても、重吉の朗読は難しいです。

 もう1篇は村山槐多の「空」です。槐多の音と光の世界に包み込まれていくように感じます。徹底的に自分の世界に入り込んでいるようでありながら、読む者までも包み込んでいく力を感じます。重吉とはまたく異なった世界を構築する詩人ですが、好きな詩人の一人です。この詩に出てくる「Xの形に燈きらきらと戦動す」のXからも話が広がりましたが、惹きつける詩です。

 好きな詩ばっかりと言って良い今回のポエカフェでした。1篇ごとに感想を綴りたいほどです。題名だけでも最後に上げておきます。安西冬衛の「春」。草野心平の「えぼ」、丸山薫の「病める庭園」、木下杢太郎の「街頭初夏」…、キリがなくなるのでこのくらいにしておきます。取り上げられた詩についてもっと知りたい方は、「古書ますく堂」さんのブログを是非ご覧ください。

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「西尾さんの術中に」 ポエトリーカフェ参加の記 第8期の3(西尾勝彦篇)

 1月21日に開催されたポエカフェ第102回で取り上げられたのは、西尾勝彦さん。1972年生まれの現役の詩人です。ポエカフェで現役の詩人が取り上げられることは少ないのですが、西尾さんはなんと3回目です。2014年2月11日の奈良での出張ポエカフェで取り上げられ、そこでの好評を受け2月22日には東京での定例ポエカフェでも取り上げられました。

 そして今回の3回目となるのですが、これまでの2回に参加された方が2名、今回も参加されています。私は奈良の回には参加できませんでしたが、2回目の参加です。(その時のブログはこちら)今回の告知がPippoさんからあった時、西尾さんの詩を囲んで参加者の方々と話せる機会がもう一度あるのだと思うと、それだけで心踊るものがありました。

 今回の年譜は西尾さん自筆(ほんの少しだけPippoさんが加筆)のものです。前回もそうだったのですが、2014年のポエカフェ以降のことが加えられています。この年譜については、今回も古書ますく堂さんがブログにまとめてくださっていますので、是非ご覧ください。

 35歳で詩を書き始め、奈良の緑豊かな場所から作品を生み出し続ける西尾さん。年譜をみながら参加者で朗読し、話し合う中、いつの間にか西尾さん色にゆったりと、しかし、しっかりと包まれていたように今も感じています。西尾さんは2017年には「のほほん社」を設立されています。「いそがしい社会の人びとにのほほんをお届けするために誕生しました。出版を通じてのほほんを広めてゆきたい」(設立の弁)という西尾さんの目的はポエカフェの会場でも達せられていたようです。

 朗読くじで当たったのは『耳の人』から「路地」でした。じつは最初にくじを引いた時に当たったのは別の詩だったのですが、交換してもらいました。前回紹介された『耳の人』が好きだったので、わがままを言いました。24篇の詩からなる詩集ですが、全体で一つの世界へと連れていってくれるような詩集です。不思議な「耳の人」。この詩について感想を言うことは、何かを落としていきそうな感じがして仕方ありません。でもしっかりと心に残っていくのです。

 資料にはこの詩に続いて「青」も記載されていました。その詩は「このあたりでは/ときどき/青が降る」と始まります。これだけで、別世界に連れて行かれそうです。でもその世界は、遠いものではないよとも、語りかけてくれているようにも感じます。『耳の人』の世界から聞こえてくる声をしっかりと聴いてくださいと、言われているようです。

 でも「言の森』の「意味論」には「意味から逃れる意味は/きっと/あるはずだ」ともあるのです。どうやら聞き方にも注意が必要なようです。こんなことを書いていることが、西尾さんの世界から遠ざかっているようにさえ思えてきます。そう思うことも西尾さんの「のほほん」の効果かもしれません。

 西尾さんの最新詩集『光ったり眠ったりしているものたち』を会場でますく堂さんから購入しました。あれから、3回読んでいます。詩に寄り添うイラストを含め、気持ちよく「のほほん」と読みたくなる詩集です。でも、油断はならないのです、西尾さんの「のほほん」は、柔らかいだけではないのです。時にしっかりと「光る」のです。「扇風機同盟』の「つくづく/ 下には上がいるなあ と/思ったのだった」が印象に残っています。そう、『耳の人 のつづき』の「ひとり旅のひとり言」にも「下には/上がいるねえ」とあるのです。耳の人の言葉として書かれています。西尾さん、耳の人の境地になっていらっしゃるのかもしれません。

 そうそう、今回参加できなかった連れ合いのアンジーにこの詩集から何篇か見せました。行けなかったことをとても残念がっていましたが、「言祝ぎ」を見せたところ、幼児の言葉として、とても分かるといういう感想がありました。そして、「ダンゴムシは/だんぎ/しめじも/だんぎ/きゃりーぱみゅぱみゅも/だんぎ」の箇所をどう解釈するか、夫婦で話し合い中です。

 最後に、もう1篇、とてもドキッとした詩があります。「無意識(たましい)」です。ますく堂さんのブログでも紹介されていますが、わたしにとって、とても大切なことを考えさせてくれる詩になりそうです。無意識をたましいと読ませ、「きみの/無意識は/頭を/あざやかに/裏切っている」と書かれたら、大哲学者も退散しそうです。

 西尾さんからの冊子のプレゼントまであったポエカフェ西尾勝彦篇。私のところではまだ続いています。西尾さんの術中にハマったのかもしれません。

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「ひとりの女性として」 ポエトリーカフェ参加の記 第8期の2(新川和江篇)

 12/17に開催された第101回ポエカフェ。記念すべき100回目には、仕事の都合で参加できず涙にくれていた私と連れ合いのアンジーはひさしぶりのポエカフェに心弾ませながら向かったのでした。

 今回の課題詩人は新川和江さん。吉原幸子さん以来の女性詩人ですが、その時のアンケートで吉原さんに投票すると同時に、アンケート対象にはなっていなかった新川さんのお名前もあげたのでした。新川さん、いつか取り上げてもらえたらいいなと思っていた私にとっては、わくわく感が更に募ります。

 新川さんは1929年のお生まれですが、88歳の今も活躍しておられます。ポエカフェ史上、数少ないご存命の詩人です。生涯に着いては今回も古書ますく堂さんがブログでうまくまとめてくださっていますので、是非、ご参照いただければと思います。

 新しい方もおられる中、いつも通り自己紹介で始まります。新川さんは初めて、あまり知らないという方も、少なからずおられ、Pippoさんはちょっとびっくり。もう一つ恒例の朗読くじも回ります。「くじ」と言っても交換可能です。引き終わったあとは、暫し交換タイム。気がつけば私の手には今回の資料の中で一番長い「扉」がありました。

 1959年の『絵本「永遠」』という詩集におさめられた詩です。6連、55行の長さです。26歳で長男の博さんを出産した新川さん30歳の時の詩集です。博さんと思われる子どもとの間の関係が描かれています。「締切日が近づくと/わたしはますます無口になり/仕事部屋をくらい海底のように澱ませて/岩かげに終日ひっそりと魚鱗を光らせたいたりした/するとおまえは/幼い足どりで廊下をつたって来ては/かたくなに閉ざされた扉の前に立ち止まり/飽くことのない情熱で母の名を呼びたてるのだ/ママ! ママ! ママ!」これが1連目です。

 ある日、一日子どもの相手をしたとき、ふいに玩具を放りだして不在の書斎の前で「ママ! ママ! ママ!」と呼ぶ子ども。子どもに向かって「わたしよ! わたしよ! わたしよ!」と叫ぶ「わたし」。

 じつは、初期の詩の中でとても印象に残っていた詩でした。子どもの叫ぶ声が聞こえてくるのです。母としての葛藤を抱えながら仕事をしている「わたし」最終連に込められた「わたし」の思い。長いだけでも大変なのに、ことばが心にのしかかってくるように感じます。そんな中での朗読となりました。朗読後の感想でもお話ししましたが、男性の私の中で、とても揺さぶられるものがあるのです。同時に叫ぶ子どもの声も聞こえてくるようです。二人が求めているものが心を揺らすのでしょうか。圧倒されるような「重さ」と同時に、母という立場で書きながら、それを超えているものを感じます。

 ところで、今になって気になることがあるのです。この「書斎」、ほんとうに具体的な部屋だったのでしょうか。子どもにとって詩を書いている母は「書斎」にこもっているのと同じだったのかもしれないのかなと。きっかけは『土へのオード 13』におさめられた「九月の第一月曜日」という詩です。そこには書き損じの原稿用紙を飛ばす「小さな息子」が出てくるのです。

 今回のポエカフェ、いつにも増してみなさんの発言が活発だったように思います。「千度呼べば」ではドリカムも引き合いに出されました。様々な受け取り方が引き出されていって時間はあっというまに過ぎ去っていきます。時にはドリカムのような感じを与えながら、読む人を引き込んでいく新川さんのように感じていました。女性詩人でも、これまで取り上げられてきた石垣りんさん、茨木のり子さん、吉原幸子さんとも異なる何かがあります。

 ポエカフェから既に1週間以上たちました。読み続けています。その中で改めて感じていることを少しだけ記しておきます。ひとりの女性として、女性性を真っ正面から受け止め、その上でひとりの人間として生き続けようとした方なのかと感じています。新川さんが求め続けたものは何だったのでしょうか。観念でなく、手触りのあるものとしての「いのち」と向き合い続けた新川さんだったのかなと感想は広がっていっています。性別を超えて訴えてくるものを強く感じながら読んでいます。

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「生きることへの眼差しに惹きつけられて」 ポエトリーカフェ参加の記 第8期の1(ジャック・プレヴェール篇)

 通算100回も目前になってきたポエカフェ。今回の課題詩人はポエカフェ史上初のフランスの詩人ジャック・プレヴェールです。どんな世界が見えて来るのか、期待が膨らんでくる中、9/17当日を迎えましたが、なんと台風です。しかし、ポエカフェは台風などには負けないのです。第1期の最終回2010年10月の萩原朔太郎の回も台風でした。今回より激しい風雨の中、Pippoさんの心配をよそにぞくぞく集合したことを思い出しながらの参加でした。今回も台風を蹴散らし15人の参加です。しかも初めての方もいらっしゃいます!

 プレヴェールはシャンソンの「枯葉」や、映画の「天井桟敷の人々」の脚本を書いた作家として、私などの世代には馴染み深い人ですが、今はどの程度知られているのでしょう?タイミングよく、『プレヴェール詩集(小笠原豊樹訳)』(岩波文庫)も出版されましたが、駒込の「青いカバ」さんは、なんと100冊仕入れて売りきったとのこと。すごいです。当日集まった方々も、かなりの方が青いカバさんで購入されていました。(私も)

 さて、プレヴェールですが、生涯に関しては今回もますく堂さんがブログでうまくまとめてくださっていますので、是非ご覧ください。配布された資料には「枯葉」の歌詞も含めて20篇が収録されています。そのうちいくつかは小笠原訳の他に大岡信訳や、北川冬彦訳も併せて掲載されています。自己紹介しながらの朗読くじも長短ある中で、交換もありです。

 詩人プレヴェールとの意識的な出会いは、他にも言及されいる方がおられましたが、Pippoさんが出していた朗読音源「てふてふ2」に入っていた「カタツムリさん葬式へ行く」(大岡訳)でした。今回も、小笠原訳とともに紹介されていましたが、Pippoさんの朗読の声が今も響いています。それ以来、気になる詩人の一人でした。大岡訳に挿絵のついた「やさしい鳥」(偕成社)が手に入ったので、気が向いた時に開いていました。

 今回、岩波文庫で読み、ポエカフェに参加する中、プレヴェールの眼差しに惹きつけられています。決して難しい言葉は出てこないのに、その結びつきの不思議さ。発想の自由さとでも言ったら良いのでしょうか。心に訴える力が大きいのに、掴みきれない広さを感じています。そして、生きることの中で出会う悲しさをうたっていても、悲しさの中に閉じこもらない世界を感じます。

 生きていく中での不条理とも言えることも、こどもに語ろうとしているようです。アンジーが朗読した「こどものための冬の歌」にそれを感じます。暖炉で暖まりあっという間に失くなる大きな雪だるま。最後の4行が残ります。「残ったのはパイプだけ/水たまりのまんなかに/残ったのはパイプだけ/それから古い帽子だけ。」不思議な読後感が残ります。

 私が朗読したのは「バルバラ」でした。今回最も長い詩でした。どう読んだらいいのか、悩みました。まずは噛まずにと思ったのですが、三回噛んじゃいました。曲がついてイヴ・モンタンが歌っています。静かなメロディーにのせて語るように歌うモンタンです。参加者のお一人が、プレヴェール本人の朗読があると教えてくださいました。淡々とした朗読ということでした。たしかに、この詩は、その方が染み入ってくるのでしょう。街で見かけた男女の姿から戦争の悲しさへと進む詩は、下手な感情を乗せたら詩を台無しにしてしまうと読んでみて感じました。

 不条理をもたらすものへの厳しい目を感じます。生涯の資料の中にあった童話集「よくない子のためのおはなし」が、とても気になっていました。「おりこうでない子どもたちのための8つのおはなし」という題になって出版されているものが、図書館にありました。挿絵は原書のままのようです。岩波文庫の詩集にも5篇が収録されているのですが、やはり挿絵のあるなしの差は大きいのです。こどもに与えたい本です。人間の愚かさがそのまま描かれ差し出されています。プレヴェールの童話や絵本がとても気になっています。『つきのオペラ』が隣市の図書館にありましたので借りてきました。これも気に入っています。

 参加者のお一人が原著を持ってきてくださり、フランス語からの説明も加えてくださったことも、ありがたいことでした。フランス語、きちんとやっとけばよかっと思うことしきりでした。それほど、プレヴェールに惹きつけられているのかもしれません。

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