蛙を離れられないで(ポエカフェ参加記 草野心平篇)
久しぶりのポエカフェ定期篇が2月25日に開催されました。課題詩人は草野心平です。単独で取り上げられるのは2011年11月26日以来です。とは言っても、テーマ篇の時等に、必ずといって良いほどに顔をだしていた草野心平です。Pippoさんも大好きな詩人とのことですから、当然でしょう。そして草野心平といえば「蛙」です。今回の資料にも蛙に関する詩が多く記載されていました。資料は第一詩集の『第百階級』の高村光太郎による序文(抄)と草野心平による「扉文」に始まり心平さんの作品38篇が続きます。さらに草野心平が敬愛・影響を受けた詩人の作品3篇が加えられていました。
今回も参加者はあらかじめ送られてきた資料から朗読希望を第三希望まで3作品申し出ます。この形式もZoomによる開催になってすっかり定着しました。選ぶ中で、詩人へのイメージが膨らんできます。みなさんが何を選ぶのかにも興味がわきます。自分の第一希望が通るか、Pippoさんからのお知らせがくるまでの楽しみです。そして、これが来たらどう読もうかということを考えるのも私にとっては大きな楽しみとなっています。
さて、今回の参加者は14名でした。みなさんが朗読された作品を記しておきましょう。「『第百階級』序文(抄)」「秋の夜の会話」「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリげの言葉」「えぼ(抄)」「聾のるりる(抄)」「るるる葬送」「ごびらっふの独白」「さくら散る」「五月」「わだばゴッホになる」「一枚の或ひは一千の葉っぱ」「魚だって人間なんだ」「婆さん蛙ミミミの挨拶」「生の夕暮れが迫ったとき」です。このうち8作品が「蛙」のもので、それに「『第百階級』序文(抄)」も加えると9作品。蛙の人気が絶大です。資料の中に蛙の詩が多かったとはいえ、蛙以外の詩も素晴らしいのですから、草野心平の蛙には読む者を惹きつけるものがあるのでしょう。(ちなみに私が朗読希望にあげたのも全て蛙の詩でした。) 朗読後の皆さんの感想を楽しく聞きながら会は進んでいきます。いつも以上にみなさんの感想が広がっていたと感じたのは私だけでしょうか。草野心平に蛙に引っ張られた結果かもしれません。
私は「ごびらっふの独白」を朗読しましたが、その準備の中で感じたことを少しだけ記します。
この詩は蛙の詩の中で唯一、蛙語と日本語の対訳詩となっています。当然、蛙語の朗読にもチャレンジすることになります。以前、この詩を読んだ時から、この蛙語がけっこう綿密に作られているのではと感じていました。そこで、無謀にも蛙語の解読にチャレンジしました。既にこの詩に関していくつかの語に関して日本語との対応が指摘されています。それも参考にしながらの作業ですが、短い時間の中、かなりの確率で日本語との対応が取れたのでは自負しています。こんなことをしたのも、蛙語の詩を蛙語の詩として朗読したいと思った故です。朗読に活かされたか気になるところです。
この詩は、最初1948年に刊行された日本沙漠に収録されています。『第百階級』の蛙とは異なるイメージがあると思います。初期の蛙は死に直面して、いや死の中でも語ります。その一方、ごびらっふは生きている中で語ります。独白という形で蛙という自分たちの種族を語っています。しかし、本質は変わらないように感じるのです。初期の作品の蛙に感じたアナーキーなものが、ごびらっふの言葉の底に込められていると言うのは考え過ぎでしょうか。そこに描かれた蛙の姿こそがアナーキーな世界を成立させうる資質ではないのかと考えています。いや、アナーキーさえ超えたものに通じるのではないのかと。
草野心平と蛙の関係はどのようなものだったのかが気になっています。高村光太郎の『第百階級』指摘の如くであっても、それは点ではなく、幅を持っているのだろうと感じます。その幅の中で、草野心平は、蛙に語らせ、蛙となって語るのであろうと。ごびらっふの独白は草野心平にとって,このような表現こそ、詩人のうちにある重層性にふさわしいのではとも感じています。日本語との対訳という形式は、両者の間に自分を置くことにもなるのではないでしょうか。翻訳という形はどちらかに成り切るのでもなく、といって距離を置いて眺めるのでなく、両者をつなぐ位置に自分を置くことになるでしょう。
この詩に関して言えば、心平さんにとってごびらっふの声は人間の声に等しく聞こえているのではと受け止めています。蛙語を理解する人間として朗読するのが相応しいと思ってチャレンジでした。
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