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2010年1月

「戦後民主主義と少女漫画」について

飯沢耕太郎さんの「戦後民主主義と少女漫画」(PHP研究所)について、以前に「社会への違和感を表出する漫画の系譜とは」というコメントだけを書いておいた。そして(書くべきことが多すぎる気がする。あらためて書きます)とも書いていた。それからしばらく経ってしまったが、やはり少しは書いておきたい。
 巻末に付された「名作一覧」の中であげられている大島弓子、萩尾望都、岡田史子、三原順、山岸涼子、吉田秋生、坂田靖子、川原泉、みななじみ深い名前だ。それ以外の作家も80年代なかばまでならだいたい分かる。70年代に入って少年漫画が輝きを失って行く中で、少女漫画は輝きを増して行った。私は少女漫画の世界に虜になって行った。
 なぜそれほどにと思うほどだったが、それが飯沢さんのいう「少女原理」への共感だったのではと今にして思う。飯沢さんは、「少女原理」ということばの中に戦後民主主義が取りこぼしてきたものを見ている。このことに私は「直感的に」同意してしまう。それは自分の中に飯沢さんのいう「少女原理」があるからかもしれない。「少女漫画」と「戦後民主主義」を結びつけた飯沢さんの視点に驚くと同時に、この見方があったのかと考えさせられた。
 飯沢さんは最後にHIROMIXの以下のことばを引用している。
  「いかに純粋性を残しつつ社会に参加するか、
   少しでもシステムを変えていくという作業を
   出来るかということが大切なのだ。」
 当たり前とされているシステムに違和感を感じることを大切にするところからこれは始まると思う。「少女原理」という言葉で飯沢さんが語りたかったものを受け止めたい。
 同時に、「少女漫画」だけでなく、以前のコメントにでも書いたように、この感覚をもっていた漫画家は「少女漫画家」だけではないようにも思える。今、私の頭をよぎるのは「永嶋慎二」。実は、この本を読みながら「永嶋慎二」の名前が何度も浮かんだ。どのように結びつくか、まだ整理はできていないが、宿題かな?

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1月15日までの読書記録(雑誌以外)

12月中旬から今までの記録です。詩集や詩の世界に関する本がほとんどです。こんな時期は今までになかったように思います。

○山村暮鳥詩集
 山村暮鳥 思潮社 現代詩文庫 1991-05
 「聖三稜玻璃」の世界と「雲」の世界の差はどこから来るのだろう。
 彼は何と戦い続けたのだろう。
 暮鳥にとっての信仰と詩の関係を考えさせられる。
 とことん自分の生き様の中から信仰を捉えようとしているのではないのだろうか。
 暮鳥にとっての「無限」は自然内部ある無限ではないのか。
 東洋的世界観の中でのキリスト教受容の問題がよこたわっていると言えるのではないか。
 東洋的世界の中に安らぎを見いだしているように思えるのだが...。

○埋もれ詩の焰ら
 江間章子 講談社 1985-10
 左川ちか、饒正太郎、伊東昌子の若くして逝ったモダニズムの詩人を著者との接点をきっかけとして紹介していく。詩を評するのではなく、著者からの鎮魂の書と言えるのではとも思う。かつて日本に存在しきらめいたモダニズムの詩人たち。
同時に著者は「あとがき」において、「のちに『第二次大戦』とよばれるこの時代、外国の詩人たちの多くは、自分たちの國への侵略者に対して、ファシストに対して、生命をかけた抵抗《レジスタンス》戦線に身をおいた。」とも書いている。

○詩歌の近代
 岡井隆 岩波書店 1999-03
 歌人として、日本語の世界を背景に詩歌の近代を語る。
 印象に残ったのは、訳詩における宗教(信仰)の問題を取り上げていること。
 吉岡実の「僧侶」に関する個所では
 「圧倒的にキリスト教が生み出した文化記号が利用されている。利用されているということは、この東洋の発展途上国にとって、心のどこかを表現するための〈技術〉として、(ちょうど科学技術のように)キリスト教文化があったということなのだろうか。」と記している。
 第二次大戦期における詩歌への再検討を語る個所では、著者の方向性が気にかかる。

○注解する者 岡井隆詩集
 岡井隆 思潮社 2009-07
 言辞すべてが注解となるのか。
 対象は外なる世界なのか、作者の内側に取り込まれた世界なのか。
 注解しつつ詩として語る著者。世界はこの形式でしか語りえないのか。

○ボン書店の幻
 内堀 弘 ちくま文庫 2008-10
 ボン書店・鳥羽茂を追う著者の姿勢に感動。ノンフィクションでありながら、詩情を感じる文章がすばらしい。著者の世界に吸い込まれながら読みました。

○Twitter社会論
 津田大介 洋泉社新書227 2009-11

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野田真吉詩集「奈落転々」

 しばらく更新してませんでしたが、その間に、一冊の詩集との出会いがありました。以下の本です。

○野田真吉詩集 奈落転々
 野田真吉 創樹社 1978-01

 ここに風狂と自らを称しつつ世界と対峙し続ける人間がいる。
 映像の世界に長く身をおき、ながら詩の世界に戻ってきた詩人。
 戻ってきたのではなく、彼の中には常に詩があったのだろう。
 それは詩の中に映像があるのと同じように。
 若いころから独自の眼をもって世界と向き合おうとしていた詩人は
 徴兵という体験を通し、するどい眼を鍛え上げてきた。
 徴兵によって詩を中断した「いさぎよさ」は
 「風狂の独楽」であり続け、
 「極楽とんぼ」であり続ける生き方へと変わった。
 「いさぎよさ」の別の形。
 「竹の長い箸」を削り続け、「流木を蹴り」つづける真吉の姿。
 渇ききった世界に向かい、そこから逃げることなく
 言葉の爆弾で、その風景を突き破ろうとする詩人がいる。
  (映像でもそうであったのか?)
 自分の眼をつぶして見ようとする世界とは。
 素朴画家を思わせるという評を受ける詩のスタイル
 しかし、そこに真吉の生きる姿がある。
 なにものにも揺るがされてはならないという生きる姿が。
 「風狂の独楽」の姿が。

 *この詩集は著者62歳の時の第一詩集。若い時に詩を書いていたのだが、徴兵されたのを期に中断し、50代後半になって詩作を再開、この詩集を発行したということです。第一部「奈落転々」がほぼ1974年以降、第二部「同床異夢」は若い頃の作品です。野田真吉についてはぴっぽさんのブログで紹介されています。「奈落転々」の中から「風狂 数かぞえ」が、掲載されています。ぜひご覧下さい。私にこの詩集を読むきっかけと機会を与えてくださったぴっぽさんに感謝です。

 

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