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2010年5月

ポエトリーカフェ参加の記3(山村暮鳥)

 前回の更新から20日たってしまった。本は読んでいるが、ブログを書く機会を逸したまま時間ばかりが経っていく。気がつけば5月のポエトリーカフェの時期。今回も参加できたので、前回に続いてポエトリーカフェ参加の記をつづっていこう。

 詩姫Pippoさん主催のポエトリーカフェ(略してポエカフェ)も第8回になった。(ポエカフェについては、こちらのPippoさんのサイトをご覧ください。)当日の様子については、Pippoさんのブログに記されている。

 今回、参加者はすべてリピーター。しかし互いに初対面の人もいる。少しずつ参加者が増えながら、定着していっているようだ。Pippoさんによる詩人の生涯の紹介が詩の朗読を挟みながらなされていく。参加者がその間、自由に発言しながらの、にぎやかな進行。Pippoさんの準備に毎回驚かされる。かなりの作業量のはずだ。二時間があっというまに過ぎていく。

 今回取り上げられた詩人は山村暮鳥ひとり。Pippoさんの朗読CD「てふてふ二匹目」にも4篇が収録されている。この朗読もとてもよい、私自身もこの朗読を聞いて、現代詩文庫の山村暮鳥詩集を手に取った。このブログにもごく簡単な感想を書いた(こちら)。

 その時には、暮鳥の詩と信仰の関係が気にかかっていた。キリスト教(聖公会)の伝道者だった暮鳥だからだ。今回のポエカフェにむけて作品を読んでいく中で、そのことももちろん気になった。しかし、それ以上に暮鳥の詩の魅力に惹かれていった。第二詩集となる『聖三稜玻璃』において、当時としてあまりにも前衛的であったその作風は悪評の嵐にさらされた。暮鳥自身が「卒倒した」と言っているほどである。その後、大きく作風を変化させるが、その作風の変化にもかかわらず、一貫してある一つの魅力を感じた。
 
 「やわらかい力」とでも表現したらいいのだろうか。作風を越えて、読む者の心にやわらかに入ってくる力を感じた。『聖三稜玻璃』の詩篇であっても、声にだして読んでいくとき、そこにあるイメージが自分の中で広がり、またそのイメージの中に取り込まれていく経験をした。それは、決して荒々しいものではない。イメージの中にここちよくいられるのだ。

 ポエカフェでは、事前に希望しておけば参加者が自分の好きな詩を1篇朗読できるのだが、今回、大胆にもチャレンジした。そのために『聖三稜玻璃』の中の詩をいくつも声に出して読んでみた。そのとき、印刷されたものとして見るよりはるかに、そこにあるイメージが親しく近づいて来るのだ。「妄語」を朗読したが、一見なんの意味の脈絡もなく続くかに見えるイメージだが、暮鳥はおそらく言葉だけのイメージではなく、実際に見ているイメージを言葉にしたのではないかとさえ思えてきたのだ。

 その力の背後に、キリスト教の伝道者としての暮鳥の生活があった。それは苦難の連続の生活であった。その中から生まれてくる詩。時に、神へストレートに疑問をぶつけることもあるが、それでもその「やわらかい力」は失われない。キリスト教の立場からすると逸脱しているかのように見える詩もあるが、それらすべてを含めて、暮鳥の信仰と詩の関係があらためて気になってくる。

 暮鳥は詩だけでなく童話も書いているが、今回のポエカフェでも「ちるちる・みちる」が紹介された。復刻本も紹介されたが、とてもやわらかい色合いのすばらしい装丁だった。童話といわれるが、詩としても読める作品集と言えるだろう。今回は紹介されなかったが「鉄の靴」は伝道者としての暮鳥ならではといった作品。そこにあるエピソードの下敷きとして聖書の記事がいくつも使われている。童話作者としての暮鳥にも興味をひかれた。

 それにしても、卒倒するような悪評にさらされたとはいえ、なぜ『聖三稜玻璃』の世界をすてたのであろうか。どうしても気になる。答えは得られないのかも知れないが。

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ポエトリーカフェ参加の記2(萩原恭次郎、高橋元吉)

 文系ファンタジックシンガーで近代詩の復興運動に熱くとりくむ詩姫のPippoさんが主催している「ポエトリーカフェ(略してポエカフェ)」の第7回に参加した。遅くなったが、参加の記をUPしておく。今回取り上げられたのは、萩原恭次郎と高橋元吉の二人。萩原恭次郎は、詩集「死刑宣告」が復刻されていることもあり、ある程度は知られていると思うが、高橋元吉は、アンソロジー以外では作品を目にすることの出来ない埋もれた詩人だろう。(参加者のほとんどが知らなかった)
 いつものように、詩人の生涯を紹介しつつ、朗読と詩の解説をはさんでいくスタイルで進められて行く。参加者がその間、自由に突っ込みを入れたり、私見を披露したりと、にぎやかな進行。初めての方もいるが、一つの詩を媒介に、互いに話し合えるのは、Pippoさんの進行のうまさとともに、詩というものの力かと今回も、あらためて感じてる。詩についてまだまだ詳しくない私でさえ、ずうずうしくけっこうしゃべっていたりするのだ。
 さて、二人の詩人について浅学な者の雑感を少し記しておこう。
 萩原恭次郎は『死刑宣告』の序で「第一期の私の意識的破壊の運動を全芸術に投弾し」と宣している。そこから『断片』を経て『もうろくづきん』に至る萩原恭次郎の生涯はあまりにも鮮烈。視覚効果をこれでもかと盛り込んでいる『死刑宣告』からは恭次郎の熱い思いがまさに爆弾の破裂のごとき熱風をもって迫ってくる。あたかも朗読を拒むかのようなその詩も、Pippoさんと参加者一名の朗読によって、音声による顔を見せてくれた。おさえて読むか、突き抜けて視覚効果を大胆に朗読に反映させるか、考えさせられる。
 まったく異なる印象を与える『もうろくづきん』の背後にある状況を思う。時代背景抜きにしては、この詩の重さは伝わらないと、話し合いを通して思う。表現は大きく変わりながらも、社会に対し向き合い続けた恭次郎がいる。彼の詩を読んで、詩のことばと思想がせめぎあっていると感じた。今回あまり話し合う時間がなかった『断片』の時期を含め、「社会状況」との向き合い方が恭次郎自身の中でどう変わっていったのか考えさせられる。今回は触れられなかったが、彼の歩みの先に思想的転向といわれるものが現れる。そうせざるを得なくなる何かがその中で見つけられるのだろうか。恭次郎だけの問題にとどまらない何かが見えて来るようにも思うのだが。
 高橋元吉は、Pippoさんからの資料と、いくつかのアンソロジーからひろった詩だけしか読む機会がなかった。恭次郎と同郷、同時代の詩人だが作風は全く異なる。生前に自らの意志で世に出した詩集は二冊のみという。書店の主人として生涯をおくった元吉。生き方も恭次郎とは全く異なる。その柔らかな表現のむこうに何があるのか、とても気になる。Pippoさんのいう「ゆるぎない思想・哲学・詩」の実態をもっと多くの彼の詩を読むことで実感してみたい。今回は間に合わなかったのだが、図書館に高橋元吉詩集をリクエストしている。早く手に取り見てみたい。

 ポエカフェに参加すると、読みたい詩集が増える。恭次郎はいちじ距離をおいていた詩人だった。それは魅力が強すぎると感じたからだ。しかし、このような場であらためて読む機会が与えられたことに感謝したい。語り合うことで得るものの大きさをあらためて確認した次第だ。

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