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ポエトリーカフェ参加の記3(山村暮鳥)

 前回の更新から20日たってしまった。本は読んでいるが、ブログを書く機会を逸したまま時間ばかりが経っていく。気がつけば5月のポエトリーカフェの時期。今回も参加できたので、前回に続いてポエトリーカフェ参加の記をつづっていこう。

 詩姫Pippoさん主催のポエトリーカフェ(略してポエカフェ)も第8回になった。(ポエカフェについては、こちらのPippoさんのサイトをご覧ください。)当日の様子については、Pippoさんのブログに記されている。

 今回、参加者はすべてリピーター。しかし互いに初対面の人もいる。少しずつ参加者が増えながら、定着していっているようだ。Pippoさんによる詩人の生涯の紹介が詩の朗読を挟みながらなされていく。参加者がその間、自由に発言しながらの、にぎやかな進行。Pippoさんの準備に毎回驚かされる。かなりの作業量のはずだ。二時間があっというまに過ぎていく。

 今回取り上げられた詩人は山村暮鳥ひとり。Pippoさんの朗読CD「てふてふ二匹目」にも4篇が収録されている。この朗読もとてもよい、私自身もこの朗読を聞いて、現代詩文庫の山村暮鳥詩集を手に取った。このブログにもごく簡単な感想を書いた(こちら)。

 その時には、暮鳥の詩と信仰の関係が気にかかっていた。キリスト教(聖公会)の伝道者だった暮鳥だからだ。今回のポエカフェにむけて作品を読んでいく中で、そのことももちろん気になった。しかし、それ以上に暮鳥の詩の魅力に惹かれていった。第二詩集となる『聖三稜玻璃』において、当時としてあまりにも前衛的であったその作風は悪評の嵐にさらされた。暮鳥自身が「卒倒した」と言っているほどである。その後、大きく作風を変化させるが、その作風の変化にもかかわらず、一貫してある一つの魅力を感じた。
 
 「やわらかい力」とでも表現したらいいのだろうか。作風を越えて、読む者の心にやわらかに入ってくる力を感じた。『聖三稜玻璃』の詩篇であっても、声にだして読んでいくとき、そこにあるイメージが自分の中で広がり、またそのイメージの中に取り込まれていく経験をした。それは、決して荒々しいものではない。イメージの中にここちよくいられるのだ。

 ポエカフェでは、事前に希望しておけば参加者が自分の好きな詩を1篇朗読できるのだが、今回、大胆にもチャレンジした。そのために『聖三稜玻璃』の中の詩をいくつも声に出して読んでみた。そのとき、印刷されたものとして見るよりはるかに、そこにあるイメージが親しく近づいて来るのだ。「妄語」を朗読したが、一見なんの意味の脈絡もなく続くかに見えるイメージだが、暮鳥はおそらく言葉だけのイメージではなく、実際に見ているイメージを言葉にしたのではないかとさえ思えてきたのだ。

 その力の背後に、キリスト教の伝道者としての暮鳥の生活があった。それは苦難の連続の生活であった。その中から生まれてくる詩。時に、神へストレートに疑問をぶつけることもあるが、それでもその「やわらかい力」は失われない。キリスト教の立場からすると逸脱しているかのように見える詩もあるが、それらすべてを含めて、暮鳥の信仰と詩の関係があらためて気になってくる。

 暮鳥は詩だけでなく童話も書いているが、今回のポエカフェでも「ちるちる・みちる」が紹介された。復刻本も紹介されたが、とてもやわらかい色合いのすばらしい装丁だった。童話といわれるが、詩としても読める作品集と言えるだろう。今回は紹介されなかったが「鉄の靴」は伝道者としての暮鳥ならではといった作品。そこにあるエピソードの下敷きとして聖書の記事がいくつも使われている。童話作者としての暮鳥にも興味をひかれた。

 それにしても、卒倒するような悪評にさらされたとはいえ、なぜ『聖三稜玻璃』の世界をすてたのであろうか。どうしても気になる。答えは得られないのかも知れないが。

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