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2010年8月

ポエトリーカフェ参加の記5(中原中也)

 前回の記事から、一ヶ月近くたってしまった。遅くなったが、今回も前回に続き、詩姫Pippoさんが主催するポエトリーカフェ(以下、ポエカフェ)参加の記。はやいものでもう5回目の参加。7/24に行なわれた今回のポエカフェはなんと、詩人の城戸朱理さんのお招きで鎌倉で行なわれるという、これまでとはひと味ちがった趣きの会となった。(当日の様子はこちらのPippoさんのブログで)

 第1部がオプションの「鎌倉文学散歩」、第2部が北鎌倉駅前の「侘助」での「本編」という構成。暑い日射しの中の文学散歩だったが、中也や、小林秀雄、田村隆一ゆかりの地で、城戸さんの解説、Pippoさんの朗読という贅沢な時間を過ごすことができた。ゆったりと歩きながら周ったが、傍目に見たらけっこう不思議な集団だったろう(上記Pippoさんのブログに写真がある)。

 さらに本編では、芥川賞作家の藤沢周さん、文芸評論家の、八木寧子さんも飛び入りで参加してくださった。参加者どうし、Twitterでフォローしていた方に初めてお会いできるのもこんな機会なればこそだ。会場の「侘助」も中也を中心に時間を過ごすに、ふさわしい趣きがある。とはいえ、申し込んだ参加者だけでも20名なので、席はびっしりになる。そんな中で、Pippoさんの解説が始まる。ここぞというところで城戸さんの分かりやすい解説が入る。Pippoさんの朗読をはさんで時はあっというまに過ぎていった。

 印象深かったことの一つに「曇天」にでてくる「黒い 旗」の解釈があった。この詩を初めて読んだとき怖くなったというPippoさん。同様の感想を持つ方や、「黒」が象徴するものとして「ファシズム」があるという指摘。「死」を思う方。さまざまな意見がだされた。私としては「ファシズム」との関連が気になった。「中也の内なるファシズム」ということばが頭をよぎる。この方向での解釈はありうるのだろうか。中也の詩の中には自らの「死」に関係するものがある。それらは、自らとの向き合い、自らをどう扱うかということと関わる詩と言えるのではないだろうか。そこに描かれた世界とも関連して「黒い旗」を考えることもできるのではと思う。

 今回は、最後に一人一人の思ったことを言う時間があった。普段より多い人数に配慮してのことであろうか。そこでの皆さんの発言の一つ一つが興味深く、この段階で予定時間を過ぎていたが、この時間があったことで、今回のポエカフェがさらに印象に残るものとなった。

 実は、若い頃、中也を意識的に避けていたと思う。何か、その時の自分が近づいてはいけないという直感のようなものによる。それで、今回のポエカフェで取り上げるのが中也と知った時、「ウワッ!」と思った。しかし、こんな機会がなければ読まないだろうと、まとめて読む。読みつつ、思いに浮かんだことをメモを取っていくのだが、その一部をここに記しておく。

 「中也のことばの持つ力。心の中にくいこんでくる。自分の弱さを知る者、中也と同じような社会との葛藤を経験した者にとって、それは苦しい力となる。読み進めることが苦しい作業とさえなりうることを感じながら読む。」
 
 今となってみれば、この苦しさを直感したために、若い頃、中也を避けていたのかもしれないと思い至った。
 
 しかし、中也の詩のことばは、あくまでも読む者にここちよいリズムを持っている。今回、できるかぎり声に出して読んでみたのだが、日本語としてのすごさを痛感した。ポエカフェの最中にも、中也の日本語のすばらしさについて話しが交わされた。だからこそ、多くの人の心に入りやすいのかも知れない。そのことばのすばらしさに包まれた苦さ。読んだ後、そのすばらしさから苦さがとけだしてくるその時、中也に出会えるのだろう。この歳になって、私自身は、やっと中也と向かい合えるように思えた。

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