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2010年9月

ポエトリーカフェ参加の記7(金子光晴)

 今回もポエトリーカフェ参加記でのブログ更新となった。今度こそ、間に読書メモをと思っていたのだが...。Pippoさんの主催するポエトリーカフェ(以下、ポエカフェ。詳細はこちら。)も第1期は今回を含めて残り2回となった。東京ポエカフェも鎌倉での開催を含めると12回になるが、気がつけば、そのうち7回も参加していた。申込開始時刻になりしだい、申込のメールを送るということにも慣れ、すっかり私の生活サイクルに入っている。還暦が視野に入ってきた年齢になって、これほど詩を読むことになるとは1年前には想像していなかったのだが。

 さて、今回のポエカフェ、開始時刻が予定より大幅に遅れた。それは、人身事故(悲しい言葉だ)により、中央線が止まり、何人もの方が間に合わなかったためだった。私も、あと二本遅い電車だったら間に合っていなかっただろう。ちょっと早く着いて腹ごしらえをして店を出ると、ホーム直前で止まっている電車が!どうなるだろうと思いつつ会場に向った。

 案の定、何人かが間に合わず、やむを得ず正午の開始予定から1時間近く遅れて始めることとなった。待つ間にも、持ってきた本を見せたり、会場となった店の様子を話したり、それなりに楽しい時間が過ぎていく。今回新しく参加された方には、この時間を使ってポエカフェの説明をするPippoさん。会場を使用できるのが2時までなので、その後は場所を移すことにし、ほとんどの方がそろったところで開始した。

 長生きされている上に、エピソード、作品ともに多い金子光晴のこと、Pippoさんの説明も大変だなと思っていたが、生涯については、何とか1時間で収まった。しかし、配布された資料を見ると、もう少し話したいことがあったのでは?と思う。それでも、11篇の詩が紹介された(長いものは抜粋で)。いつもながら、Pippoさんの朗読は詩のことばが心にすっと入ってくる。これもポエカフェの大きな楽しみ。

 2時を過ぎて場所を荻窪の南、太田黒公園にうつす。素敵な日本庭園の中にある東屋を占拠しての2次ポエカフェだ。たまにはこんな空間でもポエカフェも良いなと思いつつ、参加者の方々の金子光晴についての発言を聞いていく。残念ながらここに来られない方もおられたのだが、皆さんそれぞれの発言にいろいろな発見があり、楽しい時間となった。時に、背後で鯉のはねる水音もまたよいもの。

 この場所で、Pippoさんが金子光晴の写真集を見せてくださった。荻窪や吉祥寺界隈での写真に、知っている場所や見覚えのある風景もあり、金子光晴が、より身近に感じられる。写真であっても詩人の風貌に接することで、味わいが深まるようにも思える。

 今回のポエカフェに向けて、金子光晴の詩をまとめて読み、またポエカフェを通して感じたことを以下に記す。詩について経験浅く、金子光晴の詩をまとめて読んだのも、もちろん初めて。見当違いな点はご容赦いただきたい。

 最初に衝撃を受けたのは詩集「鮫」に代表される、戦前の日本社会の体制への批判が込められた詩だ。たしかに幾重にも鍵がかけられ、直接的な批判表現がされていないとはいえ、読む者がそれなりの目をもっていれば分かるものである。この姿勢を貫いていく詩人の姿勢の背後に何があったのか考えさせられる。(参加者の方からも、この点が指摘されていた。) 

 幼いころからの性的な体験を含めた成長の過程に、権威に対する独自の目が養われていったということもできるかもしれない。また、東南アジアや中国を放浪どうように旅していく中で出会った出来事が深く影響しているということもできるであろう。しかし、それらの経験だけなのだろうか。私には疑問は残っている。

 1917年ごろに書かれた「反対」という詩の末尾には次のようにある。

  僕は信じる。反対こそ、人生で
  唯一つ立派なことだと。
  反対こそ、生きてることだ。
  反対こそ、じぶんをつかむことだ。
           (岩波文庫『金子光晴詩集』より)

また、1952年に出された詩集『人間の悲劇』の中No.5の冒頭には以下のことばがある。詩人の生涯をつらぬいている姿勢の一端が示された言葉ではないだろうか。

  正しい意見とされてゐるものを、吾人はよくよく警戒しなければならない。
  正しい意見はその正しさにもたれる重力でゆがみ、決してくるふはずではなかった方角へ外れがちなのだ。
            (筑摩書房『定本金子光晴全詩集』より)

 それにしても、詩の1篇1篇を読んでいくとき、ひとつひとつの言葉の強さに圧倒される思いがした。読む者を圧倒するエネルギーが満ちている。人間のすべてを認め、丸呑みにした上で出されてくることばの力に圧倒されたといえるだろう。汚いとされるものを描いても、決して汚くならない金子光晴のことばのすごさがある。

 思いつくままに書いていけばいくらでもでてきそうな金子光晴への思い。それも金子光晴のエネルギーがそうさせるのだろう。今回、まとめて読む中で、ノートにメモをとっていったが、今のところ、自分の中での金子光晴をあらわすことばは、「徹底したニヒリストでありヒューマニストであった」ということになるようだ。

 一見、両極に見えるものを抱え込んだ詩人が金子光晴なのではないか。とはいえ、この2つ、両極に見えて決してそうではないと思う。ヒューマニストであることを徹底していく先にはニヒリズムが当然待ち受けていると思うからだ。『人間の悲劇』の中、No.1の最後に近い部分には「全く人間にあいそをつかしたときだけ、かへって人間は、同胞にみえる。」とある。このような詩人の生き様が、晩年に出された詩集『IL』に出てくるキリストの姿に結びついていくのではないだろうか。

 金子光晴のエネルギーは、読む者にもエネルギーを要求するかのようだ。あまりに密着して読むのは避けた方がよいのかとさえ思う。それはひとつひとつのことばを通して、詩人が読む者に迫ってくるからだ。とりあえず、ゆっくり、くりかえし読むことにしよう。

 

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ポエトリーカフェ参加の記6(大木実、高村光太郎)

 このブログも、読書メモというより、ポエトリーカフェ参加の記ブログといった様子を呈しはじめている。もちろん、その間に取り上げられる詩人以外の読書もしているのだが、そちらについてはなかなか書けずにいる。ポエトリーカフェ(以下ポエカフェ)に参加するようになり、詩を読むことが読書のかなりの部分を占めている。それで、おのずから?このようなブログになっている。どうやらポエカフェを主催するPippoさんの術中にみごとに嵌っているようだ。

 今回(8/28)のポエカフェの様子を、こちらの動画で見ることができる。Pippoさんの活動拠点とも言える「わめぞ」地域にある「ROCKET CAFE / ロケットカフェ 」で行なわれた。古書「往来座」の目と鼻の先にある。入っていくと、ビッグバンドの演奏が流れている。こじんまりとしているが、いいふんいきのお店だ。今回、めずらしくPippoさん、カヒロさんの到着が遅い。参加者が数名ほど集まっているところに、Pippoさんがコピーのたばを持って到着。どうやら、ぎりぎりまで取り上げる詩を絞り込んでいたようだ。当日の朝もTwitterで大木実の詩をなかなか絞り込めないとつぶやいていたが、そのせいか?
 
 資料を配布し終わるや、さっそくポエカフェの開始。初めての方もいらっしゃるので、ポエカフェについて説明がある。しばらくぶりで、かえって新鮮。その後、すぐに大木実を取り上げる。ほとんどの人が、今回のポエカフェまで、大木実を知らなかったという。私もそうだ。大木実の生涯が取り上げられ、Pippoさんの朗読がその間にはさまれていく。自分の周囲半径5メートルのことをうたった詩人というPippoさんの言葉どおり、生活に密着した情景が、誰にでもわかるようなことばでつづられている。人を驚かすような技巧があるわけではない。しかし、そのことばは聞く者、読む者の心にすっと入ってくる。Pippoさんの朗読も、詩のことばを浮かび上がらせてくれている。

 二人の詩人が取り上げられているので、一人についてあまり多くの時間を割けないのだが、大木実だけで1時間をこしてしまう。カヒロさんが時間を気にしている。しかし、初めて知った詩人であっても、参加者の方々からの発言が多い。みなさんの心に大木実の詩が届いているのだろう。

 残り時間がかなり少なくなってから、高村光太郎に移る。知らない人はもちろんいない有名詩人。いつごろ知ったかで、ひととき盛り上がる。岩手県にある「高村山荘」を訪問したばかりのPippoさんから、パンフレットが配られる。すてきなおみやげ。さらに晩年の智恵子が作成した切絵の絵はがきも回覧。

 光太郎の生涯を紹介しながら「道程」、「智恵子抄」の詩が紹介されていく。参加者からの発言、こちらも多い。ということで、案の定、時間内におさまらず、やむをえず近くの中華のお店に場所を移して、続けようということになる。二名の方が参加できなかったのは残念だった。ポエカフェ史上、初の事態だった。

 光太郎の生涯の中で、戦争協力詩の問題がある。Pippoさんもそのことで大きな衝撃を受けたと言っておられた。今回の岩手行きも、そのことを考えるためでもあったという。ロケットかフェでの最後で、この問題がとりあげられ、第2部?で続けられた。もちろん、どうして光太郎がこのような詩を書いたかということも話題になったが、それより印象的だったのは、その時代のことを語り継ぐことの必要性に話が進んでいったことだ。

 また、もう一つ印象的だったのは、智恵子は光太郎をどう思っていたかということが、参加者から問われたことだ。光太郎の純粋な智恵子への思いはその詩から充分に伝わる。しかし、それを智恵子がどう受け止めていたのだろうか。実は、ポエカフェ後、「芸術・・・・夢紀行 シリーズ1 高村光太郎 智恵子抄アルバム」という本を図書館で見つけた。何人かの方がこの点について書いておられる。その中に「光太郎と共に生き続けるためには、現実の世界から自己を切り離し、狂気の中に棲むしか道がなかったのだとは言えないだろうか?」(渡辺えり子)とあったのが気になっている心にひっかかっている。

 いつもより長くなるが、もう少しだけ二人の詩人について私自身が感じたことを書いておきたい。

 大木実の詩は、Pippoさんが選択に苦労したように、どれをとっても心に響いてくる。とはいえ、私自身においては、戦前のもののほうが、より響いてきたようだ。1943年に出された「故郷」という詩集がある。その中の『冬夜独居』という詩のさいごの部分に「これが生活というものか/幸福とはこうも静かに悲しいものなのか—」とある。晩年、人生を楽しむことができなかったということを語っている大木実。彼の心の底にあるものが、ここで直接顔を出しているように思えるのだが、どうなのだろうか。

 また、大木実は、多作であり詩集の数も多い。わずかな伝手があれば、積極的に先輩詩人に会いに行くこともあったようだ。生活にねざした詩を書き、作品数も多いにかかわらず、自分から積極的に発表しようとしなかった高橋元吉とは、正反対と言えるだろう。ポエカフェでも、そのことが言及された。

 生活の苦しみを避けようもなかった大木実。彼にとって詩を書き発表することこそが、生きて行くこととイコールに近かったのではないかと、ふと思った。そこに彼の生きる土台があったのではと。その切実さが、やさしいことばを通して、私たちにとどくのではないかと思う。高橋元吉は、生きる上での土台をもったうえで、自分の直面する日々を詩へと表わしていったのではないか。土台を確認する作業としての詩作なのではと、しろうとながらに考えている。

 高村光太郎については、戦争協力詩のことが、どうにも気にかかっていた。今回戦後まもなく書かれた「暗愚小伝」を読んだ。みずからを「暗愚」な者として綴られた20篇の詩だ。その最初に置かれた「土下座(憲法発布)」という詩がある。光太郎が幼い時の明治憲法発布の光景を描いたものだ。その最後に「私のあたまはその時、/誰かの手につよく押へつけられた。/雪にぬれた砂利のにほひがした。/—眼がつぶれるぞ—/」とある。

 これを読んだとき、光太郎の心は、押さえつけられたままではなかったのかと思った。光太郎の詩のことばには強さがある。しかし戦争協力詩の強さは、異質に思える。それは頭を押さえ続けられたなかで、投げつけたようなことばではなかったのだろうか。強く投げつけなければ、眼がつぶれると思っていたかにさえ感じる。自らの力でそれを押しのけられなかった光太郎は、自分を暗愚と呼んだように思える。その思いが、「暗愚小伝」中の「終戦」「報告(智恵子に)」に示されていると。
 
 長くなったが、大木実の詩をもっと読みたくなったことを付け加えておこう。古本屋で見つけられればいいのだが...。
 
 

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