« 2010年9月 | トップページ | 2010年12月 »

2010年11月

貧しき信徒 支部長から(1)

          Ikishiro3
 ここにあげた2篇の詩は、八木重吉の『秋の瞳」巻頭におさめられたものです。今回からポエカフェ参加記の番外編?として八木重吉について書いていきたいと思っています。Pippoさんが会長をつとめる「日本近代詩復興委員会」において、ずうずうしくも「貧しき信徒支部長」を名乗らせていただいていますので、少しは活動もしなければなりません(笑)。おつきあいいただければ、さいわいです。

 とは言いましても歴史の中に埋もれがちな日本近代詩人の中にあって、八木重吉は今やメジャーな存在と言えるかもしれません。クリスチャンの信仰詩人として知られる一方で、今年も小学館から選詩集が「永遠の詩」シリーズの一冊として出版されたほどです。私ごときが何か書けるはずもないのですが、一読者として、八木重吉の生涯を含め、簡単な紹介ができればと思っています。

 最初にあげた2篇の詩、それぞれ4行だけのとても短い詩です。その短い詩の中に、凛とした雰囲気がただよっているのではないでしょうか。とてもひきしまった4行です。この記事を書くにあたり、最初にどの詩をあげようかと悩んだのですが、この2篇には、その後の重吉の行く路が端的にあらわれているように思っています。しずかに、そして背筋のぴんとのびた詩人の姿勢が浮かび上がります。心のうちがわを見つめる目と、ひとりの存在をこえるものへの目、それがここにはともにあるように思います。空を見るあかんぼを見ている重吉の目。あかんぼの姿に、おかしがたいものを感じ息をころさざるを得ない重吉。自分の心の中に、みずからのこころに痛みを与える枝があるのをしずかにかなしく見る重吉。その目は、重吉の生涯を通じて変わらぬものとしてありつづけたものでしょう。

 最初の詩集である『秋の瞳』は重吉28歳1925年(大正14年)に世に出ました。その2年後1927年(昭和2年)には30歳で地上の生涯を終えています。ほんとうに短い生涯です。死を目前にして、自ら選んだ詩集『貧しき信徒』が翌年に出版されています。重吉自らの手になる詩集は、この2冊だけです。しかし、その背後には、膨大な詩稿が残されていました。それをふくめての詩集が後に刊行されていくことになり、その中で重吉の名は知られていくようになります。

 今回は、最後に30歳で昇天するまでの重吉の年譜を簡単に記しておきます。次回からは、生涯のエピソードをふくめながら詩を紹介していきます。

  明治31(1898) 2月9日 東京府南多摩群堺村相原大戸
          (現在の東京と町田市相原町)にて代々
          農業を営む八木家の三男二女の中の次男
          として生れる。
  明治37(1904) 6歳、大戸尋常小学校に入学
  明治45(1912) 14歳、隣村の神奈川県津久井郡川尻村
          小学校の高等科を卒業し、
          神奈川県鎌倉師範学校に入学。
          英語の成績抜群。
          日本メソジスト鎌倉教会のバイブルクラ
          スへ出席したと言われる。
  大正6(1917)  19歳、鎌倉師範学校本科第一部を卒業し、
          東京都高等師範学校に入学。
  大正8(1919)  21歳、駒込基督会の富永徳磨牧師より受洗。
          内村鑑三の著作や講演を通して、無教会信仰に
          近づく。
  大正10(1921) 23歳、3月、同宿の石井教諭に頼まれ、
          島田とみの勉強をみることになる。
          東京高等師範学校文科第三部(英文科)を卒業。
          4月、兵庫県御影師範学校教諭兼訓導
          (英語科)として任地に赴く。
  大正11(1922) 24歳、7月19日 島田とみ子(18歳)と結婚。
  大正12(1923) 25歳、詩を手製の小詩集(詩群)に
          まとめ始める。
          5月26日 長女桃子誕生。
  大正14(1925) 27歳、1月1日 長男陽二誕生。 
          3月 千葉県東葛飾中学校英語科教諭に転任。
          8月 処女詩集『秋の瞳』を新潮社より出版。
  大正15(1926) 3月 柏にて肺結核と診断される。
          5月 神奈川県茅ヶ崎町南湖病院に入院。
          10月頃より余病の併発に苦しみながら
          闘病生活。
  昭和2(1927)  10月26日。昇天。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ポエトリーカフェ参加の記8(萩原朔太郎)

 Pippoさん主催のポエトリーカフェも今回で第1期の最終回となり、10/30にポエカフェファイナルとして行なわれた。ポエカフェへの参加も今回で8回目となる。通算14回開催されたポエカフェだが、そのうち8回の参加できたことは、思い返しても嬉しい体験となっている。すばらしい体験を与えてくださったPippoさんとカヒロさんに心から感謝と拍手!!

 このブログも、いつしかポエカフェ参加記を書き続けることとなった。その過程で、P-Waveのポエカフェページから大きな扱いでリンクをはっていただき、私としては大感激だった。(なんと、トップ下の扱い。ありがとうございました。)

 今回取り上げられ歌のは、萩原朔太郎。ファイナルということもあり、第一部・田端文士村文学散歩、第二部・ポエトリーカフェという二部構成。文士村散歩も楽しみにしていたが、当日はなんと台風が…。皆さん来れるのだろうかという大きな不安を胸に妻といっしょに田端駅北口改札へと向った。交通が乱れることを考えて少し早めに着くように向ったのだが、無事到着。構内のコーヒーショップで少し時間を過ごしてから、改札へ向う。ちょうど皆さんが来られるのと一緒になり、なんと9人が集まる。主催のPippoさんは大きな不安を胸にこれらたようだが、涙がでそうになったとのこと。集まった我々も、互いに、「こんな日に集まる方がおかしいよね」などと互いに言い交わしながらにこにこ集まっている。

 当日の詳細は、Pippoさんのブログに詳しいので、そちらをご覧いただきたいが、台風の中、大挙して?押し寄せた見学者に感激した記念館の方の歓迎を受け、展示物の説明までくわしくしていただくという付録がついた。

 台風のせいで、外歩きは縮小されたが、それでも、おそらくいちばん天候のひどい時間帯に朔太郎が住んでいた場所(その跡はまったくないが)まで歩いた。晴れていたら、もっと歩けたのだろう。残念だが、こればかりは仕方がない。

 第二部は会場で待っていた方もいっしょになり、15名の参加。久しぶりの方に加えてファイナルにして初めての方も!ポエカフェの魅力が着実に浸透してきているのだなと思う。あの天候の中でのこの人数。今振り返っても、みなさん、Pippoさんの不思議な力に引き寄せられたとしか思えない。もちろん近代詩の魅力は大きいが、ポエカフェという場が、魅力的でなければ、続かないし、こんな日に集まることもないだろう。

 通算14回目になる、今回のポエカフェ。いつにもまして参加者からの発言が多かったように思えた。詩との関わり方、年代もそれぞれにことなり、幅の広い参加者となった今回、それだけにさまざまな視点からの発言がとびだした。群馬の詩人たちのこと、朔太郎と住んだ土地との関係なども含め、話が広がっていく。こんなところにポエカフェの魅力の一つがあることをあらためて感じる。Pippoさんが準備をしてくださる詩人の生涯を聞き、詩の朗読を聞く中で、それぞれに思いがふくらみ、疑問や、興味が生まれていく。その点でも、今回のファイナルはとてもよかったように思えた。

 疑問や興味が広がることは、その一方で、もっとこのことについて聞きたかったというような要望を生み出すことにもなる。PippoさんのTwitterにも、多くの要望が出され、それがみんなバラバラだったとあった。Pippoさん自身、それをすてきなことと受け止めておられた。私もそう思う。それは、ポエカフェが詩の入口として機能していることだとも思う。

 この先には、その興味や疑問にどう応えて行くかということもあるのだろうが、それはまた別の形を必要とするのかも知れない。(ポエカフェ合宿や、近代詩復興委員会合宿という声がどこからか聞こえていたようにも思うが…)Pippoさんを発信源とした近代詩復興の輪が、いろんな人の力を集めながら、次のステージに進めたらすばらしいと、ファイナルを終えた今、あらためて思っている。

 私自身、昨年の今頃は、これほどまでに近代詩の魅力に取り憑かれる?とは思っていなかった。しかし、私にとって、ポエカフェの参加から得られたものは、一人で詩を読んでいただけでは決して得られなかったものであることは、間違いのないことだ。

 ところで、ポエカフェに行く時、取り上げられる詩人に着いて事前にできるだけ多く読んでいく。その中で、いつもはあるていどのイメージをもって臨めたのだが、今回はそうではなかった。不思議な親近感を感じると同時に、朔太郎の持つ幅の広さなのか、さまざまな「?」が頭に浮かんだ中での参加となった。

 そして今でも、たくさんの「?」がある。いやポエカフェ後も,朔太郎のことが頭から離れない。絡めとられてしまいそうな気さえする。後日、雑司ヶ谷の古書往来座で行なわれた外市でPippoさんと話せる機会があったが、そこでも朔太郎についての話題となった。そんな状態だが、私なりの感想を以下に記しておく。

 『月に吠える』から受ける鮮烈なイメージが強く残った。浮かび上がってくる不思議なリズム。声を出して読むと、リズムに引きずられるように前へ前へと読まされていく感覚を味わった。前のめりになりそうなリズムとでも言える様な感覚だ。

 歌われている内容から来る怖さや不思議な感覚もある。今回「酒精中毒者の死」を朗読させていただいたが、参加された方から「怖い」という感想があった。朔太郎が見ていた世界のある意味の怖さ、深い哀しさが込められている様な気がして選んだ(この他にも気になるのはあったのだが、短いのを朗読したいと思いこれを選んだ)。そしてこの詩を選んだ何よりの理由は、これを声に出して読んでいるとき、泣きそうになってしまったことだった。理由は分からない。今日もあらためて音読してみて、同じ思いにかられた。

 その一方で、文語調で書かれた『氷島』のことが気にかかる。評価はいろいろあるようだが、私には朔太郎の叫びがここに込められているように思えた。しかし、『月に吠える』とは全く異なる、文体だ。大きな評価を得た、かつての文体を捨てなければ叫べなかったのだろうか。朔太郎のうちに肉体化している言葉は…と、まとまらないままにいろいろな思いが浮かんでくる。

 疑問の連続の中で、頭をよぎるのは朔太郎の結婚に対する態度だ。最初の妻、稲子との結婚生活に於ける朔太郎の言動に、彼の対人関係についての考え方やコミュニケーションの特徴が表されているのではないかと、私には思える。詳しく記せるほどまとまってはいないのだが、朔太郎という詩人は、自分の生涯を一つの方向に演出していことしていたのではないかいう考えが、頭をよぎって仕方がない。

 Pippoさんは、朔太郎を好きな理由を聞かれて「放っておけない」と答えたという。確かにと思わせる答だと、今、思っている。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年9月 | トップページ | 2010年12月 »