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2011年12月

ポエトリーカフェ参加の記 第2期の8 (草野心平)

 11月26日に「ちめんかのや」さんの「ちめんか」スペースで開かれた草野心平ポエカフェ。ポエカフェ史上、これまでにない情景がそこにあった。今回で16回目の参加になる私だが、かつてこれほどまでに笑い声に満たされたポエカフェは記憶にない。草野心平の生涯を彩るエピソードの数々に、驚くと同時に、笑いが引き出されて行く。(すでにPippoさんのブログ古書ますく堂さんのブログで、当日の楽しかった時間が紹介されている。ぜひ、ご覧いただきたい。)第1期で取り上げられた時は、なんとB面扱いで、わずか20分しか時間がなかったというが、今回、十分にその分を取り返す会となったようだ。

 私も笑いながら、いつか草野心平という詩人の奥深さに魅了されていった。今でも、なにかとてつもなく大きな山に踏み入っているような感覚が湧いてくる。『第百階級』をはじめとする蛙の詩にこめられた視点が心に染み入ってくる。蛙語で書かれた「ごびらっふの独白」は朗読した北條さんをして「あたまが、おかしくなりそうだった、・・・・」と言わせる独特のもの。添えられた日本語訳すら無用と思わせる、蛙語の力。三五さんの「えぼ」の朗読も、音源として残したかった。三五さんか、蛙か、どちらが読んでいるのかと思わせる朗読だった。紹介されて行く詩とエピソードによって、心平さん(こう呼ばせていただきたい)の世界が広がって行く楽しい時間は、あっと今に過ぎ去っていった。

 心平さんには蛙以外の詩もちろんたくさんある。読んだ範囲でのことではあるが、蛙の詩が心に残る。蛙の視点と言う、だれも思いつきそうにない視点から描き出される世界。『第百階級』に寄せられた高村光太郎の序文には「彼は蛙でもらう、蛙は彼でもある。しかし又そのどちらでもない。それになり切る程通俗ではない。又なり切らない程疎懶ではない。…」とある。その視点だからこその「死」をもふくめての「生きる」こと…。その背後に、草野心平というとてつもなく大きくて深い山を感じざるをえない。

 心平さんの山の深さは、その生涯からもくるように思う。今、『草野心平 凹凸の道 対話による自伝』(1978 文化出版局)を読んでいる。7名との対談による自伝だ。そこで描き出されてくる心平さんのショウガは、とても興味深い。排日運動が激しい中、中国の「嶺南大学」へ入る心平さん。自主的プロレタリアと自らを言う心平さん。「南京政府宣伝部 草野心平」という肩書きを持つ時期とその時の活動。心平さん自身のことばがそこに記されている。対談はさらに戦後の活動へと続いて行く。(未読)この本を読み終えた時点で、山はさらに深くなるのかもしれない。そう思わせる、スケールの大きさを感じている。

 そんな「心平」山に登りながら、詩の言葉ひとつひとつが心に沿ってくる。不思議な強さといったらよいのだろうか。強烈という意味での強さではない。しっかりとゆるぎなくたつことばと言ったらよいのだろうか。ことばのもつエネルギーが大きいと言い方が出来るかもしれないとも思う。それと、声に出して読むとき、そこにおかれたリズムにも不思議な驚きを感じる。きっと、ゆるぎない技術が隠されているのだろうと、詩への初心者に過ぎない私なりに感じている。

 心平さんが、多くの詩人に心底関わってきたということも、心に残る。Pippoさんのブログにもあるように、その関わり方、はんぱではない。「心平」山の深さ、それは人物としての大きさ、近代詩の歴史において果たしてきた役割の大きさからも来ているのだろう。

 すでに、草野心平ポエカフェの日から10日以上たっている。ブログを書くのが、遅くなってしまったが、山の深さに楽しみながら迷い込んでいるうちに、時間がたったしまったのが、その理由だ。まだしばらく、山から下りるのを許してもらえそうにない。楽しく、笑いながら山のなかを歩き続けようと思う。

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