« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012年3月

ポエトリーカフェ参加の記 第2期の11 (室生犀星)

 詩姫Pippoさん主催のポエトリーカフェも、ついに第2期のファイナルとなった。ゲストに漫画家のいがらしみきおさんをお迎えして3/24に開催された。30名といういつもより多い定員のため会場はKAKKAcafeさんの入っているビルの地下にあるカルチャー教室でも使えそうな場所。(地下まで美味しいものを運んで用意してくださったKAKKAさんに感謝。しかも今回も特別メニューあり!)

 机もだされ、いつもとは違う雰囲気で始まったポエカフェ。しかし、Pippoさんが話しだすと同時に不思議といつものポエカフェ空間へと変わって行く。ただ今回は人数が多いので、参加者の自己紹介は初めての方以外は、Pippoさんによる一言紹介。新しい方は10名。第1期第1回は5名。2年半弱でここまで浸透したポエカフェの広がりはすごいと思う。今回、第1回に参加された方も1名おられた。

 取り上げられる詩人は、参加者の間で残った大物という事で話題になった事もある室生犀星。いつもと同じスタイルで犀星の人生といっしょに詩が紹介されて行く。朗読くじも健在。ただ、人数が多いので、その中で当たりの人だけが朗読というスタイル。Piipoさんが犀星の生涯を紹介して行く中で、いがらしみきおさんが、思った事を語っていかれる。いがらしさんの視点が面白い。朴訥のようで熱いいがらしさんの語り口も人を惹き付けるものがあるように感じる。詳細はPippoさんがブログで書かれる事と思うので省略。なお、当日の写真はこちらにUPされている。参加者が発言する機会は人数の多さとゲストを迎えてということもあって、いつもより少ないが、それを補ってあまりある豊かな時間が流れて行く。時間はあっという間に過ぎて行き、後半は少し駆け足となった。

 そして第2部へ突入。いがらしさんが自作の詩をまど・みちおさんのまねで朗読される。これがまた良い味。でも最後の方はいがらしさんに戻っていたと思うのだが、それも気がつけばの事。すっかり、いがらしさんの詩の世界に包みこまれていた。Pippoさんも、いがらしさんの詩を朗読。これもまた良い。詩の本質についての議論へも話が向いて行く中で、あっという間に時間がなくなる。もっとこの時間が続けばと思うところでファイナル終了。第3期は、5月からとのことだが、まだまだ埋もれている詩人や取り上げられていない大物もいるので、期待は膨らむ。

 さて、犀星についてだが、少しだけ感じた事を記しておこう。もちろん浅学な者の感想という事でお読みいただきた。

 犀星に関しては、第1詩集である『愛の詩集』はじめ少しだけ読んでいた。印象に残っていたのは伊藤信吉編の『利根の砂山 上州詩集』だった。犀星が萩原朔太郎を前橋に尋ねた時期の作品を集めたものだ。なぜかは分からないが、初期の作品の方が好もしく思われた。その程度の感想で今回のポエカフェにのぞんだ。

 今回、あらためて犀星の一生を通しての活動を知ったのだが、その多作な事に驚かされた。のみならず、晩年にいたるまでの小説の多作さもにも驚かされる。ポエカフェ直前に『密のあわれ』を読んだが、これが晩年の作かと思われるような艶やかな作品だった。詩も今回紹介された『昨日いらつしつてください』におさめられた作品が心に残っている。私にとっては初期と晩年の作が心にかかることとなった。

 自叙伝として読める作品を繰り返し書いていたことにも驚かされる。老いても枯れない創作意欲と艶やかな作品。そんな一生を過ごした犀星の最後の『老いたるえびのうた』が心にあらためて刺さってくる。最後まで枯れなかった犀星が記した「悲しさ」は、あまりにも重い。

 まだまだ、犀星のほんの一部に触れたに過ぎない。打ち上げでの犀星に愛人がいた。それも家族には全く気づかれずにという驚きの発言もあったことだし、Pippoさん、もう1回犀星でポエカフェお願いします!(と書いたところで、4月14日にポエカフェリターンズとして犀星を取り上げるとの嬉しい知らせが!)

 それでも、ポエカフェ前から犀星の作品を読んでいく中で、いくつかの言葉が頭に浮かんできた。その一つが「もがく」という言葉。犀星は生きる事に一生かけて、もがくとでも言い得るような、精一杯の力を注いでいたのではと感じていた。今でも、そのような感じは残っている。しかし、そんな一言でくくれないものを今回のポエカフェに参加したことで、あらためて感じている。

 一人の人間の生き様を示すものとしての作品を多く生み出した室生犀星という人物に、さらに近づきたいという思いが深まっている。ファイナルの日からすでに1週間がたったが、少しずつ犀星の作品と犀星に関する本を読みつづけている。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ポエトリーカフェ参加の記 第2期の10 (石川啄木)

 めずらしく日曜日開催となった2/26のポエカフェ。少し時間があったので往来座によった後、妻のアンジーといっしょに会場のKAKKAcafeさんに到着。少し早めに会場に着くと、KAKKAさんが椅子と机の大移動中。参加する皆さんがPippoさんの方を向けるようにとのこと。お店のレイアウトをかえてまでの配慮がとても嬉しい。もちろん、Pippoさんとカヒロさんも準備中。

 そうこうしている内に、参加される方々が入ってこられる。今回のポエカフェで取り上げるのは石川啄木にちなんで用意してくださった啄木サンドが、あっという間に売り切れる。(啄木サンドの写真はこちら)今回の参加者は20名。新しい方も2名おられる。いつも思う事だが、毎回、初めての方がおられるだけでなく、その方々がリピーターとなっていく。Pippoさんの努力が着実に根付いていっているのが分かる。

 今回は石川啄木の回。詩人というより、歌人としての方が有名かもしれない。Pippoさんの用意してくださった資料にも、『一握の砂』を中心に、短歌が多く掲載されている。

 当日の様子はすでにPippoさんのブログ「古書ますく堂」さんのブログに詳しいが、啄木の生涯が紹介されるにつれて、そのあまりのことに、女性陣を中心にツッコミがとどまるところをしらない状態になる。ある程度はと思っていたPippoさんの予想を越える事態に。きわめつけは「クソッタレですね!」と切り捨てたUさんか。確かに、『一握の砂』におさめられた短歌群からのイメージとはあまりにもかけ離れた生き方と言える。(このあたりのこと、「古書ますく堂」さんがうまくまとめてくださっている)

 それでも『一握の砂』をはじめとして、今なお啄木の作品は生き続けている。啄木の実人生とは別に、作品が受け取られて行く。その作品が読む者の心にとどく何かをもっているからこそ、実人生から得られるイメージとのギャップは大きい。それゆえのツッコミの連発、炸裂となるのだろう。

 そのギャップ(真にギャップかは私にはまだ不明だが)を越えて残っている作品を読んでいくとき、一つの疑問がわき起こってくる。それは、啄木にとって、作品を生み出すとはどういうことだったのだろうかということだ。浅学な私ごときが何かかけることではもちろんない。ギャップを感じさせるまでにして、造り上げていった作品世界に、啄木は何を託したのだろう。そんなことを考えつつ、ポエカフェの時間は楽しく過ぎて行った。

 第2期ポエカフェの楽しみの一つに朗読くじがある、参加者全員がくじをひき、作品を朗読するのだ。今回私が読んだのは『あこがれ』から、「啄木鳥」。後の短歌とはまったくことなる、華麗な言葉使いにあふれる1篇だ。若き啄木が、それまでに吸収したすべてを、自身の内に持てる力の限り紡ぎだしたかのような力を感じた。そのせいでか、啄木の力に引き出されるように声を張っての朗読となった。現在における「あこがれ」の評価は別として、若くして、ここまでの力をもっていた啄木の才能を思わざるを得なかった。

ところで、今回のポエカフェに際し、啄木の作品を読んでいく中で、どうしても気になっている事がある。それは短歌の3行書きだ。以下は、浅学な者の感想として記しておく。

 上の句・下の句の区切りを敢えて無視したかのような行分けが随所に見られる。その3行書きの作品を前にして、どういうリズムで朗読する事を啄木は望んでいたのかと、疑問が湧き出てきた。有名な「たはむれに母を背負いて/そのあまり軽きに泣きて/三歩歩まず」にしても「5・7/5・7/7」となっている。短歌でありながら、自然な短歌の区切りで読まそうとしない改行。

 真ん中の「5」だけを2行目にした作品もあるかと思えば、2行目が「7・5・7」の作品もある。少なくとも、そのように改行する事で、視覚的な効果があることだけは確かだろう。『悲しき玩具』では、句読点などの記号や一字下げ等が用いられる。これも、短歌の中に別のリズムを視覚的に持ち込んでいるように思える。短歌であって、短歌を越えようとしたのだろうか。私には3行詩に見えて仕方がない。そんなことを考えていたら、NHKのEテレで取り上げられた啄木の歌を見た息子が「これは詩だね」と一言つぶやいた。
 
 こんなことも考えさせる啄木の作品だが、晩年(といっても若いが)の活動。借金の天才だった啄木、彼を守りつづけた金田一京助をはじめとする友人たちとの関係。いろいろな面に興味は広がりつづける。それも、彼の作品が心に残すものがあればこそ。この「参加の記」を書きつつ、あらためてそれを確認している。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »