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ポエトリーカフェ参加の記 第2期の10 (石川啄木)

 めずらしく日曜日開催となった2/26のポエカフェ。少し時間があったので往来座によった後、妻のアンジーといっしょに会場のKAKKAcafeさんに到着。少し早めに会場に着くと、KAKKAさんが椅子と机の大移動中。参加する皆さんがPippoさんの方を向けるようにとのこと。お店のレイアウトをかえてまでの配慮がとても嬉しい。もちろん、Pippoさんとカヒロさんも準備中。

 そうこうしている内に、参加される方々が入ってこられる。今回のポエカフェで取り上げるのは石川啄木にちなんで用意してくださった啄木サンドが、あっという間に売り切れる。(啄木サンドの写真はこちら)今回の参加者は20名。新しい方も2名おられる。いつも思う事だが、毎回、初めての方がおられるだけでなく、その方々がリピーターとなっていく。Pippoさんの努力が着実に根付いていっているのが分かる。

 今回は石川啄木の回。詩人というより、歌人としての方が有名かもしれない。Pippoさんの用意してくださった資料にも、『一握の砂』を中心に、短歌が多く掲載されている。

 当日の様子はすでにPippoさんのブログ「古書ますく堂」さんのブログに詳しいが、啄木の生涯が紹介されるにつれて、そのあまりのことに、女性陣を中心にツッコミがとどまるところをしらない状態になる。ある程度はと思っていたPippoさんの予想を越える事態に。きわめつけは「クソッタレですね!」と切り捨てたUさんか。確かに、『一握の砂』におさめられた短歌群からのイメージとはあまりにもかけ離れた生き方と言える。(このあたりのこと、「古書ますく堂」さんがうまくまとめてくださっている)

 それでも『一握の砂』をはじめとして、今なお啄木の作品は生き続けている。啄木の実人生とは別に、作品が受け取られて行く。その作品が読む者の心にとどく何かをもっているからこそ、実人生から得られるイメージとのギャップは大きい。それゆえのツッコミの連発、炸裂となるのだろう。

 そのギャップ(真にギャップかは私にはまだ不明だが)を越えて残っている作品を読んでいくとき、一つの疑問がわき起こってくる。それは、啄木にとって、作品を生み出すとはどういうことだったのだろうかということだ。浅学な私ごときが何かかけることではもちろんない。ギャップを感じさせるまでにして、造り上げていった作品世界に、啄木は何を託したのだろう。そんなことを考えつつ、ポエカフェの時間は楽しく過ぎて行った。

 第2期ポエカフェの楽しみの一つに朗読くじがある、参加者全員がくじをひき、作品を朗読するのだ。今回私が読んだのは『あこがれ』から、「啄木鳥」。後の短歌とはまったくことなる、華麗な言葉使いにあふれる1篇だ。若き啄木が、それまでに吸収したすべてを、自身の内に持てる力の限り紡ぎだしたかのような力を感じた。そのせいでか、啄木の力に引き出されるように声を張っての朗読となった。現在における「あこがれ」の評価は別として、若くして、ここまでの力をもっていた啄木の才能を思わざるを得なかった。

ところで、今回のポエカフェに際し、啄木の作品を読んでいく中で、どうしても気になっている事がある。それは短歌の3行書きだ。以下は、浅学な者の感想として記しておく。

 上の句・下の句の区切りを敢えて無視したかのような行分けが随所に見られる。その3行書きの作品を前にして、どういうリズムで朗読する事を啄木は望んでいたのかと、疑問が湧き出てきた。有名な「たはむれに母を背負いて/そのあまり軽きに泣きて/三歩歩まず」にしても「5・7/5・7/7」となっている。短歌でありながら、自然な短歌の区切りで読まそうとしない改行。

 真ん中の「5」だけを2行目にした作品もあるかと思えば、2行目が「7・5・7」の作品もある。少なくとも、そのように改行する事で、視覚的な効果があることだけは確かだろう。『悲しき玩具』では、句読点などの記号や一字下げ等が用いられる。これも、短歌の中に別のリズムを視覚的に持ち込んでいるように思える。短歌であって、短歌を越えようとしたのだろうか。私には3行詩に見えて仕方がない。そんなことを考えていたら、NHKのEテレで取り上げられた啄木の歌を見た息子が「これは詩だね」と一言つぶやいた。
 
 こんなことも考えさせる啄木の作品だが、晩年(といっても若いが)の活動。借金の天才だった啄木、彼を守りつづけた金田一京助をはじめとする友人たちとの関係。いろいろな面に興味は広がりつづける。それも、彼の作品が心に残すものがあればこそ。この「参加の記」を書きつつ、あらためてそれを確認している。

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コメント

三行詩、なるほど!など想いつつ、
愉しく、拝見しました。

ほんとに、啄木にとり、短歌、て何だったのだろう、と。
啄木の「スバル」編集時のようすなどもみてると、
他の形式(小説・詩ほか)より、
短歌という作品形式を、すこし、したにみていたようなむきもあったり。
それでも、その短歌、で。
こんなにも、人人の胸にのこり愛される
作品を沢山のこした、それを
ふしぎで、少し切なく想いつつ。

まだまだ、たくさんの謎はとけません!笑

投稿: Pi | 2012年3月 7日 (水) 08時27分

コメントありがとうございます!ほんとうに啄木にとって短歌と何だったのか、疑問はふくれていきます。ちくま日本文学の『石川啄木』におさめられている関川夏央さんの「彼はむかしの彼ならず」の中には『歌い捨てるようにつくる短歌』とか『泣きながらいい捨てたような短歌によって一部の注目をはからずも集めたのが啄木だった』ともありますし…。ともあれ、謎という楽しみが増えました(笑)

投稿: グレアムペンギン | 2012年3月 7日 (水) 09時45分

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