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2016年2月

「詩でなかったら人に見せない迄だ」  ポエトリーカフェ参加の記 第6期の3 (八木重吉リターンズ篇)

 久しぶりのポエカフェ参加記です。3回連続参加できず(参加するようになってから、おそらく初めて)、ポエカフェロスの状態でしたが、1/24に開催された八木重吉篇にやっと参加できました。Pippoさん主催のポエカフェも、早いもので通算77回を数えたとの事。何回か取り上げられている詩人も数人います。確か北原白秋は4回だったように記憶しています。今回の八木重吉も2回目です。

かつてPippoさんが立ち上げた「日本近代詩復興委員会」の八木重吉担当「貧しき信徒支部長」としては、何が何でも参加せずにはいられない回です。(支部長名は重吉の詩集『貧しき信徒』からです。)第2期の第1回で取り上げられた八木重吉。(その時の参加期はこちら)も5年近くも前の事になります。

 今回、初参加の方が5名。常に新しい方が加わりつつ、常連さんもいるというのがポエカフェの素晴らしいところです。それに、2回目と言っても、1回目に参加されていたのは、私以外にはDさんおひとりだけ。八木重吉は初めてという方も居られ、新鮮な回となりました。

 そろそろ始まるというとき、支部長としてPippoさんの隣に席を指定されました。前回もそうだったのです(汗)。自己紹介が終わって、さあ本編というとき、Pippoさんから突然、年譜の最初のところやってくださいとの無茶振り!です。(その間に「朗読くじ」を作成するPippoさん)しどろもどろしながら、少しだけ進めてPippoさんに戻します。(大汗)支部長として、もっとスムースに進めたかったのは山々でしたが、なんせ急なことで…すみません。

 さて、テキストには詩集として発行された『秋の瞳』『貧しき信徒』から、序を含めて計44篇。その他の遺稿からも多くの詩が取られていました。それに合わせて「朗読くじ」もたくさんあります。ひとり2枚とっても余る状態。重吉は短い詩が多いので、こうなったようですが、全部は朗読できませんでした。

 年譜の紹介とともに詩を参加者が朗読していく、いつものスタイルですが、初めての方を含めて、感想や意見の発言が膨らみ、とても豊かな会になりました。短くも、凝縮された重吉の詩が、様々な感想を呼び起こしたようです。発言の多さから、後半は駆け足で、終わることになりましたが、この状況は、支部長としては、とても嬉しいものです。

 重吉の死後の奥様の努力や、後に再婚した吉野秀雄氏とその子だもたちの、家族揃っての、重吉の詩集発行への努力までは、簡単に触れただけになりました。それなくして、重吉の詩は、今に残らなかったと思いますので、あらためて、ここに記しておきます。

 途中で、初参加の方から、解釈の結論は出さなくていいのですねという確認がありましたが、まさに結論を出さず、自由に発言できるのがポエカフェの良いところです。支部長としては、自分の解釈をどこまで言って良いのかなと迷う時もあるのですが、幸い、みなさんの積極的な発言に助けられた感じがしています。こういう点、ポエカフェを開き続けているPippoさんの手腕はすごいのです。

 会の詳細は古書ますく堂さんのブログにも詳しいので、是非、そちらも見ていただければと思いますが、そのなかで「草にすわる」の解釈は支部長にと振られていました。その詩は「わたしのまちがいだった/わたしの まちがいだった/こうして 草にすわれば それがわかる」とたった3行の詩なのですが、1行目と2行目の一文字あけが、刊本によって違うのです。定本ではここに引用した形、全集では、一文字あけが1行目にあり、2行目にはないのです。短い詩だけに、この違いで受ける印象はかなり違ったものになりえます。時間があれば、皆さんのご意見を聞きたかったところです。それを考える事が重吉の世界に入る、かっこうの入り口になるような気がします。(解釈なしで、すみません)

 短い中に豊かな世界を持つ、重吉の詩。いろいろな解釈が出るのはむしろ当然のことと思います。クリスチャン詩人としての重吉の詩を、信仰的な解釈から読むこともできます。この点について、Pippoさんから意見を求められることもありました。しかし『秋の瞳』『貧しき信徒』の詩集には、直接的に信仰を表現したものは、実は少ないのです。特に、信仰的に深まっていた時期に編まれた『貧しき信徒』においてもです。信仰者としての背景を持ちつつ、詩としての普遍性を求めたのかなと思っています。それも、かなりの高次元での調和を求めたのではと。

病床で重吉が遺したノートに「詩を作り詩を発表する/それもそれが主になったら浅間しいことだ/私はこれから詩のことは忘れたがいい/結局そこへ考えがゆくようでは駄目だ/イエスを信じ/ひとりでに/イエスの信仰をとほして出たことばを人に伝へたらいい/それが詩であろう/詩でなかったら人に見せない迄だ」(病床ノオトA)とあります。ここに重吉の思いを見るような気がします。

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