文化・芸術

「やわらかさの中にも」 ポエトリーカフェ参加の記 第7期の5 (石垣りん篇)

 2月26日に開催されたポエカフェの詩人は石垣りんさんです。りんさんファンの連れ合いアンジーと一緒の参加です。あれから1週間以上たってしまいましたが、余韻覚めやらぬ状態です。石垣りんさんの改めて大きさを感じる回でした。りんさんの生涯については、今回も「古書ますく堂」さんがブログでうまくまとめってくださっていますので、ぜひご覧ください。

 「二月には/土の中にあかりがともる」石垣りんさんの死後に出版された詩集『レモンとねずみ」に収められた「二月のあかり」の冒頭です。2月26日に開催されたポエカフェ石垣りん篇での朗読くじで当たったのがこの詩でした。第1詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』から出版された順にりんさんの詩を皆で読んでいく中で、最後に近いところでの朗読です。それまでの、社会や女性の立場について、または、家族についての時に辛辣で、厳しく、また重く迫ってくるりんさんの詩とは、異なった感覚を受けます。それだけに、印象に残った詩となりました。

 一読した印象は「やわらかい」ということでした。二月の土の中にともるあかり。春はまだ姿を見せない中、やがて来る春に備えている土の中のお母さん。夜の明けぬ内から子供の遠足の準備をする母親の姿に重ねて歌われています。

 晩年の詩なのでしょうか。この詩を書いた時、りんさんの目に何が映っていたのかと考えさせられます。戦争を経験し、若い時から男性社会の中で働き続けたりんさん。「表札」に代表されるような背筋の伸びた、キリッとした詩がよく知られているでしょう。「表札」の最終連「精神の在り場所も/ハタから表札をかけられてはならない/石垣りん/それで良い。」の鋭さ、いさぎよさに惹かれます。

 わたしにとって、ポエカフェに参加するようになる前から読んでいた数少ない詩人です。朗読音源を聴いて、その朗読に引き込まれたものです。りんさんの詩に出会って十数年になると思います。そんな中での今回のポエカフェでした。皆さんがどのように読まれるのか、どのような感想が出るのか、いつにもまして興味がありました。初参加の方も含め、とても盛り上がった会となりました。りんさんの詩が、皆さんの発言を引き出していったようです。

 皆さんの発言を書き留めていっているのですが、いつもよりメモの数が多くなりました。それだけ、りんさんの詩が、お一人おひとりに届いているのではと思います。「これが一番好き」と言って朗読する方。自分の状況と比較してあまりにも辛いのでと、くじを交換された方。詩の力を強く感じる時でした。今も読まれるべき詩人という発言もありましたが、本当にそう思います。だからこその盛り上がりでしょう。

 朗読されなかった詩に『やさしい言葉』の「川のある風景」があります。「夜の底には/ふとんが流れています/」と始まります。「川が流れています。/深くなったり/浅くなったり//みんな/その川のほとりに住んでいます。」と閉じられます。この詩もとても気になっています。

 『レモンとねずみ』の巻末に収められた「石垣さん」という谷川俊太郎さんの詩があります。そのなかに「私は本当のあなたに会ったことがなかった」という1行があるのです。本当の石垣りんに会ったことがある人はどのくらいいるのだろうかと思います。

 詩一篇、一篇から受ける感動とは別に、石垣りんという詩人のイメージ、なかなか焦点が定まりません。銀行員としてのりんさん。組合活動を活発にしていたりんさん。家族の全てを背負っていたりんさん。一人の女性としての晩年のりんさん…。苦しさを扱う詩でも、決して否定しないりんさん。独特の強さを思います。それは冒頭にあげた「二月の明かり」のやさしさの中にも息づいていると思うのです。その強さの奥底にあるものが知りたくなります。エッセイを含め、もっともっと読みたくなる詩人です。

 さて、次回は尾形亀之助とのこと。これまた楽しみです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「時代を越えて」 ポエトリーカフェ参加の記 第7期の4 (吉原幸子リターンズ篇)

 通常は、月1回のポエカフェですが、今回は熱烈なリクエストがあったようで、1/22に開催された吉原幸子篇のリターンズが、早くも2/11に開催されました。本編の吉原幸子篇の時、取り上げる詩人投票で吉原幸子さんに一票を入れた身としては参加しないわけにはいきません。しかも、前回終了後、連れ合いのアンジーに、「よかった、よかった」を連発していたものですから、アンジーもリターンズには何が何でもの意気込みでの参加となりました。

 いつもと違い、土曜日の昼間の開催。神田伯剌西爾さん界隈も日曜の夜とはまったく違った雰囲気です。伯剌西爾さんの店内、いつもとは違うスペースをお借りしての開催です。ちょっと狭いけど、参加者の皆さんの声がよく聞こえ、親密度も増すような感じで、これもまた良しです。膝を付き合わすような狭い会場で開催したこともある初期の頃のポエカフェを思い出したりもしていました。

 さて、今回も吉原さんのご子息・純さんが参加してくださり、参加する身としては、感謝感謝です。

配布された資料、年表は同じですが、詩は六篇が新しくされていました。ポエカフェ初参加の方も含め、恒例の自己紹介から会は始まります。Pippoさん以外13名の自己紹介なのですが、おそらくポエカフェ史上でも、一番時間をとった会の一つとなりました。でも、それが飽きないから不思議な空間です。ここに入ると、何かが引き出されてくるのでしょうか。

 会自体はいつも通りに年譜で生涯を振り返りながら、朗読くじで当たった作品を朗読・感想という形で進みます。年譜の紹介中、純さんが適宜面白いコメントを挟んでくださいます。前回聞いたこともあるはずですが、純さんの幸子さんへの想いが込められたコメントに、時には笑いもありで、引き込まれていきます。こんな機会、90回以上開催されたポエカフェでも、滅多にあることでは、ありません。改めて、これだけでも幸せな時間でした。更に、お持ちいただいた写真や資料がすごすぎます!大きく引き伸ばしてお持ちいただ写真の幸子さんのカッコイイこと!これを見られただけでも参加してよかった!!このあたりのこと、今回も古書ますく堂さんのブログを是非ご覧ください。

 今回の朗読くじで当たったのは、『魚たち・犬たち・少女たち』より、「死ぬ母 ― さらばアフリカ」でした。ご子息の話では、『昼顔』の「街」が転機となっており、これはそれ以後の作品となります。たしかに作風の変化を感じます。「わたしを殺したのなら/わたしをたべてください/いちばんおそろしい猛獣たち にんげんよ」で始まるこの詩。角を取られ、砂の上で朽ちていく母が捕らわれ檻の中にいる息子のことを思う歌という体裁です。諄々と語られる思い。「です・ます」調で綴られる言葉の中、1箇所だけ「それが礼儀だ」と強い言葉が突然現れます。

 この詩を朗読する中で、改めてこの「それが礼儀だ」に込められた怒りとも悲しみ共言える感情が強く迫ってきました。朗読中、この箇所に差し掛かった時、一瞬、ひるみました。どんなに読もうとも、この言葉にかなわないと。

 『幼年連禱』の中の「IX 空襲」も心に残りました。それは「人が死ぬのに/空は あんなに美しくてもよかったのだろうか」と始まり「戦いは/あんなに美しくてもよかったのだろうか」と閉じられます。東京大空襲が背景にあるようです。この最初と最後に挟まれた部分では、「あんな大きな夕焼け」「反射の ぜいたくな 幻燈(スクリーン)」「どこからか さんさんと降りそそぐ 金いろの雨」といった表現があります。

 焼夷弾が降りそそぐ下では、地獄絵図が繰り広げられています。しかし、遠くから見るなら、さまざまな光と色の共演しか見えません。幸子さんは、その「美しい」光景の下で何が起っているかを知っていたはずです。だからこそ、その前後を「美しくてもよかったのだろうか」と挟んでいるのでしょう。「美しくても」の「も」が残ります。この詩に時代を越えた普遍性を感じます。

 この詩だけでなく、生きること、死ぬことに向き合い続けた幸子さんの、それでいて、しんが揺らぐことがないゆえの普遍性を改めて強く感じ、もっともっと、読み継がれていってほしいと思いが残るポエカフェでした。

さあ、次は26日の石垣りん篇です。待ち遠しい!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「『痛いいのち』を抱いて」 ポエトリーカフェ参加の記 第7期の3 (吉原幸子篇)

 今年最初のポエカフェは、1月22日に開催されました。今回は、PippoさんがTwitterで挙げた3人の女性詩人からアンケートで選ばれた吉原幸子篇です。Pippoさんの著書『心に太陽をくちびるに詩を』にも取り上げられた詩人です。本にまとまる前の連載時から気になっていた詩人で、すこしづつ追っかけていたこともあり、吉原幸子に1票入れました。ですので、ワクワク感はいつもより高めだったかもしれません。その上、ご子息の純さんが参加してくださるというのです。期待が高まらないわけがありません。

 少し早めに会場の伯剌西爾さんに着いたところ、一般のお客さんが帰るまでお店の片隅で待つことになりました。すると、そこに「初めてです」という男性がお一人。常連さんも次々集まってくる中、お店の切り替えも終わり、席に着くとその男性はPippoさんの席のそばに。Pippoさんから資料が配られた後、その方が最初に紹介されましたが、何とご子息の純さんでした。知らずに隣の席に座った私ですが、「やった!」とこころの声が聞こえたような。

 伯剌西爾の店長さんが用意してくださったお菓子(とても美味しかったです)を注文しながら、自己紹介の始まりです。まずは、純さんからでしたが、ご子息ならではの思いを込めた自己紹介に、この部分だけでも来てよかったと思えるほどです。

 年表を参考にしながら、吉原幸子の生涯を追っていきます。この辺り、いつものように古書ますく堂さんがブログにうまくまとめてくださっていますので、是非、ご覧ください。その間にもご子息からの情報が入ります。劇団四季では天本英世と同期だったとは!原宿に住んでいらっしゃたころのことを話されるご子息。そのころの原宿の雰囲気を思い出しながら聞いていました。

 生涯の紹介とともに、いつもの通り朗読くじで当たった作品を各自が朗読します。一番くじを引いたのはなんとご子息。作品は処女詩集『幼年連禱』から「無題(ナンセンス)」です。ゆっくりと、間をおきながら、言葉をとても大切に読んでゆかれます。この朗読から受けたものを表現する言葉を持ち合わせていないことが悔しいと切実に思います。ただ「スゴイ!」としか言えません。

 私が当たったのは『幼年連禱』から「I あたらしいいのちに」です。吉原幸子が、ご子息を身ごもっている時に作られた作品です。詩集ではこの後、一連の「Jに」という詩が続きます。もちろん「J」とはご子息のこと。母親としての吉原幸子の詩です。

 しかし、ご本人を前にして、この詩を朗読することになろうとは…。なんとか朗読を終えましたが、詩の力に圧倒されて感想がうまく言葉になりません。「おまえにあげよう/ゆるしておくれ こんなに痛いいのちを」と始まります。「それでも おまへにあげた/いのちの すばらしい痛さを」と続きます。これが第1連。最終連の4連目は「ぎざぎざになればなるほど/おまへは 生きてゐるのだよ」と始まります。吉新幸子自身が、「ぎざぎざ」になりながらも、懸命に生きようとした人なのでしょうか。生まれ来る我が子に、このような言葉をかけられる人の生き様を思います。

 ご子息のお話の中で、わたしにとって興味深かったのは、第3詩集の『オンディーヌ』、第4詩集の『昼顔』を好きな方は、これ以外の詩集を好まないということでした。この2冊、ちょっと異質でどろどろしているとの事。現代詩文庫で読んだだけですが、たしかに異質な感じは受けました。個人的には、この2冊好きなのですが、他が嫌いかというとそうではないのです。ただ、心に響いてくる場所が違う様な気がします。今回の資料にはありませんでしたが『昼顔』の中から「・・・」と「蠟燭」も心に残っている詩です。

 私の読んでいる範囲ですが、いのちと死に向き合い続けた方なのではと思います。それも抽象的なものではなく、自分の肉体を通してという印象を持っています。女性としての自らの肉体を正面から見つめつつ、人としての悲しさと切り結んだ方なのではとも思います。

 2月11日には、リクエストに答えてのリターンズ篇が開かれるという嬉しいニュースがありました。もちろん参加します。もっと、もっと知りたい詩人です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「美しき空っぽに魅せられて」 ポエトリーカフェ参加の記 第7期の2 (吉井勇篇)

 今年最後のポエカフェは久しぶりの吉井勇でした。Pippoさんの大好きな『パンの會』の中心メンバーの一人です。パリのサロンのようなものを日本でもと始められた『パンの會』。その代表人物の一人とも言える吉井勇。歌集を30冊も残し、1960年まで生のある限り作歌を続けた吉井勇です。『パンの會』に関わる詩人・歌人としては北原白秋や木下杢太郎が既に何回か取り上げられていますが、吉井勇は2回目です。

 体調を崩した方の急なキャンセルもあり、いつもより少し少ない人数でしたが、ポエカフェの雰囲気はいつもと変わらず、参加者を包んでいきます。伯剌西爾さんの用意してくださったお菓子も美味しく、参加者の方々の朗読や感想を聞いているうちに、時間は今回もアッと言う間に過ぎ去って行きました。

 15歳から最晩年までの作品群からPippoさんが厳選した135首が資料に並んでいます。朗読くじには、5~10首くらいが並んでいます。そのなかから選んで朗読です。ちょっと自分の感性が試される?気分もあります。

 ここまで書いてきて、吉井勇の素晴らしさ、心に残ることをどう表していいかわからない自分に気がつきました。決して作品がつまらなかったり、得ることがなかったりというのではありません。、むしろその正反対なのです。今回のポエカフェが終わって、数年前からの『短歌研究』に細川光洋氏の『吉井勇の旅鞄』という連載があったことを知り、クリスマスで忙しい時期でしたが、隣市の図書館で掲載誌を漁るという行動に駆り立てられています。(今年の11月号にも特集があります)

 前回取り上げられた時も、気になる人物ではありましたが、今回ほどではありませんでした。吉井勇の句を評する言葉として、「美しきからっぽ」という言葉が紹介されました。たしかに私が朗読くじで当たった『酒ほがい』所収の歌など、その代表格かもしれません。「わが胸の鼓の響きたうたらりたうたうたらり酔えば楽しき」という歌が紹介されていました。たうたらりの繰り返しが残ります。「いくたりの男のために取られたる手かは知らねど我も取りたる」勇がとった手の相手はどのような女性でしょうか。母音の「お」と「う」が想像と思いの世界を作っているように感じます。しかし、歌われている世界について、「それがどうした」と言われれば、答えに窮するのではないでしょうか。

 吉井勇の素晴らしさのひとつとして思い当たるのは、日本語としての音の、特に母音の扱いのような気がしています。予習を兼ねて全歌集を読んでいたのですが、途中からふと、字を追っていくのではなく、音読、ないし心の中で音を響かせながら読むようにしてみました。そうしてみると、不思議と歌が入ってくるように感じるのです。短歌の定型を崩すような歌はありません。突拍子もない表現もありません。しかし、音を、しかも句の切れ目を意識しつつ、少し伸ばすように読んでいくと心地よいのです。(昔聞いた百人一首の読み方を思い出しながらです。朗読の時、そのような読み方でとも思いチャレンジしましたが、うまくいきませんでした。)吉井勇の句を評する言葉として、「美しきからっぽ」という言葉が紹介されました。その「美しさ」の一端を垣間見たように思うのです。若い頃の酒に溺れ、花街に遊んだ頃の句も、流浪の旅の中で読んだ句も、その点では変わりないように感じます。

 「京に老ゆ」で始まる連作もそうですが、紹介されていた中でもすごいのが『天彦』に収録されている「寂しければ」に始まる連作です。実に72首もあるのです。全歌集でこれを目にした時、圧倒されました。今回の資料には8首が載せられていましたが、同じ言葉で始まりながら、これだけの数を詠める勇の世界の広がりが伝わってきます。それでも日本語としての音の美しさの中に収められています。おそらく吉井勇の日本語における音に魅せられたとも言えるかもしれませんが、もちろん、音だけでもないのです。

 戦後も活躍し続け、宮中の歌会の選者にまでなっている吉井勇。高らかに思想を込めることなく、美しき空っぽの世界を表に出しながら、気がつくと奥深い世界に取り込まれているように感じています。日本語の表現者として、まだまだ、追っかけ続けたくなる歌人と思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「鳥に導かれて」 ポエトリーカフェ参加の記 第7期の1 (鳥の詩篇)

 11月26日、Pippoさん主催のポエカフェ、鳥の詩篇@我孫子に参加してきました。前回の参加が7月でしたから4ヶ月ぶりです。ポエカフェ禁断症状がかなり強くなってきていましたので、ひときわわくわくしながらの参加となりました。そのためもあって(?)、10時からの開催なのに、9時過ぎには我孫子駅に着いてしまいました。会場のブックカフェNorthlake cafe& Booksさんに行くには早すぎるので、途中の手賀沼公園に立ち寄りました。午前の日差しを浴びながら、水鳥たちが遊覧船乗り場のそばで泳ぎ、飛び回っています。今回のポエカフェは鳥の詩がテーマ。この風景にほっこりすると同時に、期待はたかまります。

 少し歩いて会場に到着。Northlake cafe& Books、いい佇まいです。お店の外と入って左側には魅力的な本が並んでいます。既にPippoさんはじめ参加者も数名おられます。カウンターを背に、テーブルを挟んでちょっと左右に長くなりながら、着席。いつものように自己紹介から開始です。

今回は、一人の詩人を取り上げるのではなく、Pippoさんが幅広く選んだ「鳥の詩」が題材です。資料にはホイットマンから始まり、現代短歌までが収録されています。いつもながら、このようなテーマ別ポエカフェでのPippoさんの収集力には感嘆します。

 詩人の生涯に関する紹介がない分、取り上げられた詩を、参加者が次々に朗読し、一言感想を話しながら会は進みます。朗読くじで当たった詩を読むのもいつも通りですが、なぜかいつもよりドキドキします。私が引いたのは金子光晴の「かつこう」でした。くじを開けた瞬間、「ワッ!!」と思います。好きな詩が当たったのは喜ばしいのですが、かえってどう朗読できるかドキドキです。まあ、大した朗読はできませんが…。3連目「霧につゞいている路で、/僕は、あゆみを止めてきく。/さびしいかつこうの声を。/みじんからできた水の幕をへだてた/永遠のはてからきこえる/単調なそのくり返しを。」で、かつこうの声と共に時空を超えた世界へと誘われます。「みじんからできた水の幕」が今とのつながりの中で心に残ります。最後の2行は「かつこうがなゐている。/かつこうがなゐている。」と繰り返されます。今に引き戻されるかのようです。

 朗読くじ、交換しても良いのですが、向かい合わせに座ったお二人が、お互いの好きな詩を引くという驚くべき(?)出来事も起きました。お二人、嬉しそうに交換して朗読なさっていました。こんな自由さも、ポエカフェの良いところです。

 一人の詩人を取り上げる回と違い、テーマ別の会の楽しみは、いろいろな詩人に出会えることです。わたしにとっての嬉しい出会いは高良留実子の「木」でした。最近、現代詩文庫から「続・高良留美子詩集」が刊行され、ちょうど読み始めたところでした。心ひかれる詩人との印象を持ち始めていたところでしたので、不思議な感覚です。

 プレヴェールの「鳥さしのうた」、ブローディガンの「スワンの日々に」、大江満雄の「一つの世界を」、新美南吉の「墓碑銘」等が、今の私に響いてきます。ペンギンを名乗るものとして嬉しかったのは、高田敏子の「ペンギン」が入っていたこと。「飛べないつばさをふりながら/とてもとても遠い彼方を」見ているペンギンの姿が浮かびます。

 楽しい時間は、あっという間に過ぎます。それでも今回はポエカフェ本編だけでは終わらない楽しい時間が控えています。Northlake cafe& Booksが提供してくださった「豆と挽肉のカレー」のランチが、とても美味しく、近かったら、これを食べるためにも通ってしまいそうです。セットのコーヒーも美味しくいただきました。

 更に、楽しい時間は続きます。ここで個展を開いておられる海津さんの案内での手賀沼散歩です。あらかじめ準備してくださったコースは、興味深い場所の連続でした。文学に関わりのある場所を中心に、手賀沼周囲の崖(はけ)をのぼったりおりたりしながら、自分がどこにいるのかは分からなくなっていますが、出会う場所に惹かれて、そんな事どうでもよくなります。ここまで準備してくださった海津さんに、心から感謝です。

 最後は、手賀沼のほとりにでました。少し日が傾いてきた手賀沼の風景もまた良しです。海津さんから、鳥の種類を教えてもらいながら、歩きます。時には、人懐っこく寄ってくる鳥までいます。Pippoさん、その子に話しかけてたような….

 そうそう、途中で立ち寄ったお煎餅屋さんのお煎餅、お土産に買いましたが、上品な良いお煎餅でした。不思議な集団がいきなり立ち寄ったので、お店のおばあちゃん、驚かれたことでしょう。

 いつもより長くなりました。あの日から1週間以上たち、既に次回12月の告知も出ていますが、今もあの時間が暖かく思い出されます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「惹かれるだけでなく」  ポエトリーカフェ参加の記 第6期の6 (三好達治篇)

 このブログ、最初は読んだ本のメモのつもりで始めたのですが、途中からポエカフェ参加記ブログとなっています。そのポエカフェにも、しばらく参加できない日々が続き、ポエカフェ欠乏症に陥っていた私でした。前回参加したのが、3月20日の北原白秋・木下杢太郎の会でしたから、なんとも長い欠席となりました。

 

 7月31日に開催されたポエカフェ三好達治篇。連れ合いのアンジーとともに、やっと来れた!これで少しは、欠乏症も良くなるだろうと思いつつの参加となりました。アンジーも「最近、詩が足りてない!」と言っていたので、思いは同じです。しかも三好達治、ポエカフェでは第1期2010年2月に丸山薫と一緒に取り上げて以来ですが、私もアンジーも、その時が初ポエカフェでしたので、懐かしい想いも加わり、わくわく一杯の参加となりました。

 広島大学大学院教授の、西原大輔先生をゲストにお招きしての会ということもあって、定員をオーバーの中、いつも通り自己紹介から開始です。自己紹介の間に、恒例の朗読くじが回ってきます。同時に、会場を提供してくださっている「神田伯剌西爾」の方が注文をとって回ります。恒例のポエカフェフードは、店長さんがケーキの仕入先に特注してくださった、柘榴と生クリーム添えのシフォンケーキ!もちろんアンジーと一緒に注文しました。(とても美味しゅうございました!)

 Pippioさんが三好達治の生涯を追っていく中、参加者が朗読していくスタイルはいつも通りですが、西原先生が適宜解説を入れてくださいます。西原先生の解説、軽快で素晴らしく、ご本人もツイートされていましたが、Pippoさんも熱弁。お二人の解説が呼び水になったのでしょうか、参加された方々からの感想やお話もふくらみました。

 Pippoさんが資料に載せた詩で、私も好きな詩が、研究者の間ではほとんど取り上げられないことにびっくりしたり、詩の中の視点についてのSさんの話(もっと聞きたかった)など、まだまだ話したいというところで、時間はきてしまいました。(三好達治の生涯については、古書ますく堂さんが、今回もブログでうまくまとめてくださているのでご参照ください)

 今回、三好達治の生涯で改めて印象に残ったのは、こどものころに天皇への崇拝が教えられたこと、陸軍の幼年学校の経験等でした。また、二十歳で俳句の実作が千句を越えていたことも。フランス文学に親しみ、ヴェルレーヌを卒論で取り上げた三好達治のもう一つの面がそこにあるように思えたのです。

 今回の資料でももっとも取り上げられた、第一詩集『測量船』。予習でも改めて読みましたが、くりかえし読みたくなる詩集です。資料に挙げられたなかで心に残ったは「鴉」や「草の上」でした。一般に有名なのは「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」という「雪」かもしれませんが、「鴉」や「草の上」は、それとはまったく異なる趣の作品です。『測量船』を読みながら感じるのは、作品世界の幅の広さでした。以降の作品では見られなくなるような作品世界が含まれているように感じています。

 みなさんの感想を聴きながら、頭の中は大忙しですが、それでも恒例の朗読が回ってきます。今回、当たったのは『大阿蘇』。モノトーンの絵が浮かび上がってきました。ベールが1枚かかったような、霞の向こうに静かに佇んでいる世界。そんな風に感じました。東洋的な世界が描かれているよう感じながら朗読しました。

 また、資料にも挙げられていましたが、「捷報いたる」に代表される「戦争協力詩」のことも、どうしても考えてしまいます。全詩集に再録されていない一群の戦争協力詩。『測量船』の世界との落差には、唖然とし、考えさせられます。戦後書かれた『砂の砦』。どんな思いで書いたのだろうと、考えさせられます。

 本編が終わって、しばらくぶりに2次会にも参加しました。西原先生もお忙しい中残ってくださり、楽しい時間です。そんな中、2回目の三好達治はどうでしたかと、Pippoさんから問われましたが、測量船の魅力に惹かれると同時に、まだまだ考えさせられる点が多いとお話ししました。戦争協力詩を含めて三好達治を読む中で、何か見えてくるものがあるのではと、思い続けています。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「またリターンズはあるのかな?」  ポエトリーカフェ参加の記 第6期の5 (北原白秋・木下杢太郞篇)

 去る3月20日に開催されたPippoさん主催のポエトリーカフェ(ポエカフェ)は、通算80回目となる記念すべき会でした。1期目の途中から参加していますが、長い間参加していても、いつも新しい世界を見せてくれるポエカフェに改めて驚きを感じています。とても遅くなりましたが、その参加記をここに記しておきます。参加した会で、参加記を書けなかったのは翌日から発熱して、ダウンした1回だけ。実は、その1回こそ、今回取り上げられた二人のうちの一人、北原白秋でした。(「ちめんかのや」さんでの開催が懐かしいです)

 二人の詩人は北原白秋と木下杢太郎、白秋はポエカフェで4回目の登場です。杢太郞は2回目。もっとも二人とも、あちこちで顔を出している、ポエカフェ常連?の詩人です。でも、この二人を同時に取り上げるのは無謀ではと思いつつ(危惧しつつ?)会場に着けば、資料の多さに、確信?に変わりました。どうなることでしょう?

 恒例の自己紹介で始まるポエカフェですが、お題に沿って「杢太郞と私」で自己紹介。実は杢太郞との出会いは今のように詩人に親しむ前のことでした。体調を崩し伊東にある知人の別荘で短期間過ごさせてもらったこと時のことです。伊東の街を公衆温泉に行くために歩いていた時、杢太郞記念館に出会ったのでした。記念館で印象に残ったのは、杢太郞が晩年に描き続けた百花譜でした。杢太郞の詩については、まったく知識がない時のことです。販売されていた百花譜の絵葉書を購入し、良いものに出会ったという幸せな感覚を今も覚えています。一緒だった連れ合いのアンジーも、詩より絵の人として出会ったと自己紹介をしました。

 耽美派の双璧とも言える白秋と杢太郞、邪宗門で華々しくデビューし(実家の借金の返済を待ってもらえるほどの効果があったとか)、アップダウンはありながらも、多くの作品を残し、いまも名が残る白秋。それに比して、多くの詩を作っていた時期には詩集を出すことなく、後に、振り返るようにして詩集が出された杢太郞。詩人としての杢太郞は、白秋に比して、まったく埋もれた存在とも言えるかもしれません。

 でも、ここにきて岡井隆著『木下杢太郎を読む日』や、岩阪恵子著『わたしの 木下杢太郎』が刊行されたり、2月には岩波文庫の『木下杢太郎詩集』が復刊されるなど、木下杢太郎に関する動きが活発になっています。

 紹介された二人の生涯は古書ますく堂さんが、今回もうまくまとめてくださっているので、是非参照してください。最後がかなり駆け足になったのは、予測通りでしたが、この二人の日本語への感覚には、不思議な魅力を感じます。二人について、心に残るイメージを記しておきましょう。

 白秋の『邪宗門秘曲』などは、これでもかと言うきらびやかさです。朗読してみると、その音の魅力に、その南蛮趣味と相まって、強烈なインパクトだったことでしょう。後に童謡の世界で活躍する白秋ですが、音とリズムの詩人というイメージが残っています。今回のポエカフェではそこまで触れられませんでしたが、白秋の童謡世界も魅力的です。でも、それも最近は埋もれつつあるように聞くことがあり、残念な思いがします。

 一方、杢太郞は晩年の百花譜を見て思うのですが、本来は絵の人だったのではというイメージが残ります。若き日の願いが画家になることだったも資料にあったのですが、その所為というわけではなく、初期から晩年に至るまで、杢太郞の心に印象を残した世界を絵筆ではなく、言葉で描いているように感じているのです。杢太郞だけのことではないかもしれませんが、彼の詩に、ことさらにそれを感じています。

 また、杢太郞は太田正雄として医学者の顔を持ちます。その傍らでの文筆世界。彼にとってどのようなものだったのでしょうか。二つの道を行くについての鴎外とのやりとりもあったそうですが、杢太郞の生涯を追っかけてみたくなっています。幸い、全集と日記が私の住む市の図書館には揃っているので、ゆっくりと紐解ければと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「入門篇だからこそ」  ポエトリーカフェ参加の記 第6期の4 (入門篇 《テーマ:犬と猫》)

 2月21日に行われたPippoさん主催のポエカフェ、毎月の定例会としては珍しい入門篇でした。入門篇は特定の詩人を取り上げるのではなく、テーマを決めて、それに沿った詩が集められるのが恒例です。今回のテーマはなんと、《犬と猫》!なのです。

 世に猫好き、犬好きが多くいらっしゃるのは皆様ご存知の通りですが、このテーマで詩を集めるとどんなものがあるのか、はたまた誰が犬や猫を題材にした詩を書いているのか、始まる前から興味津々です。そんなこともあってか、ポエカフェ前日までに、テーマに沿った詩を詩人別に調べて、ブログに発表する方までおられるという盛り上がりを見せての開催となりました。

 入門篇ということもあり、新しい方もあられる中、何時ものごとく配られた資料には、さりげなく?約40人もの詩人の詩が集められ、枚数も7枚!詩人の年譜がないとはいえ、すごい資料です。集められた詩は木下杢太郎の『金粉酒』に始まって、最後にはPippoさんの自作詩も掲載されています。近代詩に限らず、いまも活躍している詩人の作品、現代短歌もあります。その幅の広さに驚かされます。詩人の年譜作成も大変と思いますが、これだけの詩を集める労力を考えると、いやはや頭が下がります。いずれの詩も、何らかのかたちでPippoさんの心に語りかけたものでしょう。どんな詩が選ばれているかを見るだけでも時間は過ぎて行ってしまいそうです。(いつもポカフェのブログを書かれている古書ますく堂さんのブログにその一端が書かれていますので、ぜひご参照ください。)

 まず自己紹介から始まるポエカフェスタイルはいつもの通りですが、今回は犬と猫がテーマとあって、自己紹介もいつにもまして?広がりました。犬派と猫派、どっちが多かったのかは分かりませんが、参加者の皆さんが語るエピソードが面白いこと。これからの盛り上がりを予感させるものとなっていました。

 自己紹介の後、時間の許す限りの朗読大会となりました。テーマが《犬・猫》だけに、三毛猫の毛の色の違いでの性格の違いとか、なぜ犬に吠えられるのかなど、犬や猫に関する薀蓄も披露し合う中、いつもとはちょっと違う盛り上がりです。

 集められた詩の中で、驚いたのは立原道造からも取られていたこと。全集にあった前期草稿から見つけた方がおられたのです。立原道造には犬や猫のイメージがなかったので、「えっ!」という感じです。見つけた方の報告によれば、犬の詩は6、猫はたった1篇とのこと。見つけられた道造は、苦笑いかもです?

 木下杢太郎や萩原朔太郎、室生犀星、前回のポエカフェで取り上げられた八木重吉、尾崎放哉がいれば種田山頭火もいます。ここではとても書ききれませんが、ポエカフェに参加する中で知る事になった詩人は懐かしく、好きな詩が取り上げられていると、やはり嬉しいのですが、それ以上に楽しいのは、今回初めて知る詩人の作品です。

 これまでのテーマ別の回でも、印象深い詩人に出会ってきましたが、今回はわたしにとっては大収穫の回となりました。出会った詩人は、朗読くじで当たった、「ヴィスワズン・シンボルスカ」です。ポーランドの詩人で、1996年度のノーベル文学賞を受賞しています。

わたしが当たったのは『終わりと始まり』という詩集に収録されている「空っぽなアパートの猫』という詩です。「死んでしまうなんて 猫に対してすることじゃない」と始まるこの詩、空っぽのアパートに残された猫がしそうな行動を描写していきます。その猫の描写を通して、主人にいない部屋の空間が浮き上がってきます。

 詩の最後の一行は「始めのうちは跳ぼうとも鳴こうともしないで」と結ばれます。帰ってくるはずのない主人が帰ってきた時のことを想っての猫の行動です。この最後の1行も含め、埋めることのできない空白に満たされた部屋が、残された者の思いが浮かび上がってくるように感じました。

 ポエカフェ後に読んだ詩集の解説によれば、『夫の死を悼んだ詩』ということです。それを知れば尚更ですが、それを知らなくとも、とても迫ってくるもののある詩です。難しい表現や言葉はありません。でも、そこに描かれた世界の奥深さに惹かれました。

ポエカフェ後、図書館にあった『終わりと始まり』そして『橋の上の人たち』を借りて読んでいます。いまは、『終わりと始まり』は2周し、『橋の上の人たち』を読み進めています。厳しい政治状況の中で生き抜いたシンボルスカです。平易な言葉で書かれながら、多様な理解を可能とする重層的な世界があるようです。出会えてよかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「詩でなかったら人に見せない迄だ」  ポエトリーカフェ参加の記 第6期の3 (八木重吉リターンズ篇)

 久しぶりのポエカフェ参加記です。3回連続参加できず(参加するようになってから、おそらく初めて)、ポエカフェロスの状態でしたが、1/24に開催された八木重吉篇にやっと参加できました。Pippoさん主催のポエカフェも、早いもので通算77回を数えたとの事。何回か取り上げられている詩人も数人います。確か北原白秋は4回だったように記憶しています。今回の八木重吉も2回目です。

かつてPippoさんが立ち上げた「日本近代詩復興委員会」の八木重吉担当「貧しき信徒支部長」としては、何が何でも参加せずにはいられない回です。(支部長名は重吉の詩集『貧しき信徒』からです。)第2期の第1回で取り上げられた八木重吉。(その時の参加期はこちら)も5年近くも前の事になります。

 今回、初参加の方が5名。常に新しい方が加わりつつ、常連さんもいるというのがポエカフェの素晴らしいところです。それに、2回目と言っても、1回目に参加されていたのは、私以外にはDさんおひとりだけ。八木重吉は初めてという方も居られ、新鮮な回となりました。

 そろそろ始まるというとき、支部長としてPippoさんの隣に席を指定されました。前回もそうだったのです(汗)。自己紹介が終わって、さあ本編というとき、Pippoさんから突然、年譜の最初のところやってくださいとの無茶振り!です。(その間に「朗読くじ」を作成するPippoさん)しどろもどろしながら、少しだけ進めてPippoさんに戻します。(大汗)支部長として、もっとスムースに進めたかったのは山々でしたが、なんせ急なことで…すみません。

 さて、テキストには詩集として発行された『秋の瞳』『貧しき信徒』から、序を含めて計44篇。その他の遺稿からも多くの詩が取られていました。それに合わせて「朗読くじ」もたくさんあります。ひとり2枚とっても余る状態。重吉は短い詩が多いので、こうなったようですが、全部は朗読できませんでした。

 年譜の紹介とともに詩を参加者が朗読していく、いつものスタイルですが、初めての方を含めて、感想や意見の発言が膨らみ、とても豊かな会になりました。短くも、凝縮された重吉の詩が、様々な感想を呼び起こしたようです。発言の多さから、後半は駆け足で、終わることになりましたが、この状況は、支部長としては、とても嬉しいものです。

 重吉の死後の奥様の努力や、後に再婚した吉野秀雄氏とその子だもたちの、家族揃っての、重吉の詩集発行への努力までは、簡単に触れただけになりました。それなくして、重吉の詩は、今に残らなかったと思いますので、あらためて、ここに記しておきます。

 途中で、初参加の方から、解釈の結論は出さなくていいのですねという確認がありましたが、まさに結論を出さず、自由に発言できるのがポエカフェの良いところです。支部長としては、自分の解釈をどこまで言って良いのかなと迷う時もあるのですが、幸い、みなさんの積極的な発言に助けられた感じがしています。こういう点、ポエカフェを開き続けているPippoさんの手腕はすごいのです。

 会の詳細は古書ますく堂さんのブログにも詳しいので、是非、そちらも見ていただければと思いますが、そのなかで「草にすわる」の解釈は支部長にと振られていました。その詩は「わたしのまちがいだった/わたしの まちがいだった/こうして 草にすわれば それがわかる」とたった3行の詩なのですが、1行目と2行目の一文字あけが、刊本によって違うのです。定本ではここに引用した形、全集では、一文字あけが1行目にあり、2行目にはないのです。短い詩だけに、この違いで受ける印象はかなり違ったものになりえます。時間があれば、皆さんのご意見を聞きたかったところです。それを考える事が重吉の世界に入る、かっこうの入り口になるような気がします。(解釈なしで、すみません)

 短い中に豊かな世界を持つ、重吉の詩。いろいろな解釈が出るのはむしろ当然のことと思います。クリスチャン詩人としての重吉の詩を、信仰的な解釈から読むこともできます。この点について、Pippoさんから意見を求められることもありました。しかし『秋の瞳』『貧しき信徒』の詩集には、直接的に信仰を表現したものは、実は少ないのです。特に、信仰的に深まっていた時期に編まれた『貧しき信徒』においてもです。信仰者としての背景を持ちつつ、詩としての普遍性を求めたのかなと思っています。それも、かなりの高次元での調和を求めたのではと。

病床で重吉が遺したノートに「詩を作り詩を発表する/それもそれが主になったら浅間しいことだ/私はこれから詩のことは忘れたがいい/結局そこへ考えがゆくようでは駄目だ/イエスを信じ/ひとりでに/イエスの信仰をとほして出たことばを人に伝へたらいい/それが詩であろう/詩でなかったら人に見せない迄だ」(病床ノオトA)とあります。ここに重吉の思いを見るような気がします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「響きをかんじながら」  ポエトリーカフェ参加の記 第6期の2 (高階杞一リターンズ篇)

 またまた遅くなりましたが、20日に開催されたポエカフェの参加記です。今回は高階杞一リターンズ篇。なんと現代詩人のリターンズ篇です。3年前、ご本人をお招きして開催されたポエカフェが懐かしく思い出されます。その時参加していた夏葉社さんが、絶版になっていた詩集『早く家へ帰りたい』を出してくださるきっかけともなった回でした。

 今回は、ご本人選による『高階杞一詩集』(ハルキ文庫)刊行もあり、課題本となっています。しかも20日は高階さんの誕生日だったのです。もしかして、今回もご本人の参加があるかもと期待しましたが、残念ながら今回はご本人の参加はありませんでした。でも、さまざまな感想が交錯する中での盛り上がりを感じる回となりました。盛り上がりのせいか、時間が足らず、最後は駆け足になりました。恒例の朗読くじも全員朗読はしましたが、すべてのくじを読むことができなかったほどです。

 でも、みなさんの感想を聞くことはポエカフェの楽しみの一つに間違いありません。自分だけで読んでいては、まず気がつかない視点からの感想に、ハッとさせられることが多いのです。今回の感想の中で、私個人として印象的だったのは若き詩人Sくんの読み解きでした。なんと詩集『春’ing』の同題の詩を前日2時間も考えていたとのこと!もっと聞きたかったな~!と今でも思っています。そこに書かれている時間の捉え方に、目からうろこでした。

 みなさんの感想を聞きながら思うのは、高階さんの詩の多層性です。それだけに、感想の幅もひろがるのでしょう。難解なことばは使われていないのですが、日常性とシュールな世界とがごくあたりまえのようにつなぎ合わされています。

 「家には誰もいなかった」、「キリンの洗濯」…、あげていけばきりがありませんが、不思議な世界です。キリンとはいったい何?と考えても答えはでてきません。何を示しているのかを考えるより感じて欲しいといったことなのでしょうか。

 『早く家へ帰りたい』は、その点で異質でしょう。自分の子どもの死を扱った詩集です。そのせいでしょうか、あまりにも散文的なストレートな表現です。そこに偽りはないと思います。偽りのなさが多くの人々にとどく力なのかとも思って読んでいました。この詩集へのKさんの評も、大いに考えさせられるものありでした。「反対意見でもいいですか」と始まったKさんの感想。とても貴重なものだったと思います。さまざまな受取り方があって当然と思います。詩を書くことへの根源的な問いも含んでいるように感じました。こんな意見を聞け、それをきっかけにしていろいろな意見を聞けるのは、ポエカフェならでしょう。この時間も充実した時間でした。

 今回の朗読くじであたったのは、『桃の花』から「杜子春」と「戦争」でした。時間の関係で一つになったので「杜子春」を朗読。じつは、予習で読んでいる中で、これが当たったらどうしようと悩んでいた詩なのです。なにせ、泰山とハローワークが一緒に出てくるのです。でも、そこに描かれた世界に、感じるものがたしかにあるのです。今回朗読してみて、あらためて好きな詩になりました。高階さんの詩は、声に出すことで、輝きを増すのでしょうか。すくなくとも、声に出す中でハッとさせられることがあるのです。

 ところで、前回の時の参加記で「作品が書かれている時間の幅は広い。しかし、数多い作品世界をつらぬいて聞こえてくる音があるようだ。そして、その音の響きと自分の距離を、今思っている。」と書きました。その距離感については「重なることも含めての距離感」とも。ポエカフェのまえに課題本を読んでいる時、あらためて距離感について考えさせられました。その中で「内側からの距離感」といったことばが浮かんできました。

 今回の参加を通じて、その思いは強まっているようです。自分と同じではない、でも詩の中に響いている音色に共鳴するものがある、そんなふうにも言えるかもしれません。そんな感じを抱きながらの参加でした。その音色は、存在の奥底で響いているようです。それは、高階さんの詩に感じる喪失感につながるものでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

文化・芸術 | 書籍・雑誌